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記憶の絵30

时间: 2020-03-30    进入日语论坛
核心提示:旧かなと新かな私は私の父親が文部省で旧かなを新しいかなに変えようとした時、その会議に出ていて、長い長い話をして、かなづか
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旧かなと新かな

私は私の父親が文部省で旧かなを新しいかなに変えようとした時、その会議に出ていて、長い長い話をして、かなづかいを変える案を葬ってしまった、ということを知った時、すごく感動した。又その会議の日に、父が会場に入ろうとした時、誰だったか、文部大臣が、(存分にやれ)と、言ったということにも感動した。
フランスでも、ドイツでも、文明国はみんな、昔の言葉を変えないようである。たとえば私たちが巴里で珈琲店《キヤフエ》に入って珈琲を誂え、ギャルソン(給仕)が紙切れに、腰に紐で吊した鉛筆でun cafe, tarte, demi blonde. なぞと書くのを覗くと、そこに書かれる言葉はすべて、バルザックの小説の中にある同じ言葉と全く同じ綴りである。今の日本の状態から考えると、不思議なことだが、フランスではそれは不思議でもなんでもない、当前《あたりまえ》すぎることなのである。言葉だけではなくて、珈琲店の卓子や、洋杯《コツプ》、ギャルソンのなり[#「なり」に傍点]、鉢植えの青々とした蘇鉄は、モオパッサンの小説の挿絵と同じである。
観光国家として徹底していることも関係しているらしいが、つまりは美や情緒を大切にしているのである。方々の国の巴里狂がそこに腰をかけて、心をうつつに漂わせることが出来るようになっている。巴里の人間も心の奥底にまでは這入らせないのだろうが、或ところまでは外国人を迎え入れ、抱き取るような感じだ。話が外れたが、どこの国でも自分の国の言葉を大切にし、その美しさを自慢している。自分の国の王様を誇り、過去の英雄を誇り、詩人を誇り、画家を誇っている。
日本人は(一部を除いて)旧かなは覚え難《にく》いとか、なんとか、自分の国の文字をまるで野蕃な、未開の言葉ででもあるかのように恥じて、変えようとする。過去の名人の描いた画も、外国人が褒めるとはじめて、まだ少しもじもじしながら自慢をしはじめる。全くおかしなことである。私はきれいなものが好きで、旧かながきれいなので使っているが、このごろになって一つの発見をした。新かなづかいも或条件のもとでは、大変にきれいに見える、ということである。
あるパァティで北杜夫氏に始めてお眼にかかった時、双方の父のことから国語の話が出た末、北氏が、(僕は旧かなの方がいいと思っていますが旧かなで書くと、老人に思われると思って新かなで書き始めました)と、言った。私は北氏の文章を旧かなだと、信じていたのである。私は文章によって、新かなが旧かなにみえることに気づいた。富岡多恵子、白石かずこ、滝口雅子、吉行理恵等の若い人たちも新かなを使って私に、旧かなを使っている文章と同じ感じを見せてくれる。
薔薇香水は蒸留の方法が新しいものに変っても、昔の香水と同じ薔薇の香いを漂わせてくれるものだと、わかったのである。
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