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記憶の絵41

时间: 2020-03-30    进入日语论坛
核心提示:好きな鴎外とわからない鴎外(鴎外)というのは、私が大人になってから、その人の書いたものを読んだ、あまりよく知っているとは
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好きな鴎外とわからない鴎外

(鴎外)というのは、私が大人になってから、その人の書いたものを読んだ、あまりよく知っているとはいえない人間である。私を膝にのせて揺《ゆす》ってくれたり、膝枕をしている私の背中をさすってくれた父親と同じ人だと思うので大好きなことは大好きだが、小説家としては永井荷風氏や三島由紀夫氏が言う程偉くはないような気がする、という人物である。議論の文章がうまいので、議論はわり合いにわかるが、ハルトマンとか、審美学とかが出てくると弱い。私は不肖の子で、(鴎外)を識る人が一番いいと口を揃える「澀江抽斎」はじめ、一連の歴史小説は退屈で死にそうである。「澀江抽斎」で一つだけ面白いのは抽斎がなめくじが嫌いで、闇の中を歩いていても、いるのがわかったというところで、私も極度のなめくじ嫌いで、なめくじがいればすぐわかるので困っているからだ。父の家の湯殿が古くてよくなめくじがいたが、何人入っても知らずに上ってしまうのに、私は入るや否や彼らを見つけて、全身がすくみ、大声で女中を呼ぶ騒ぎだった。なめくじを嫌いな人の霊感が大変面白くて、あんなに面白いことは他《ほか》の本には書いてないのである。大名の家の紋が並んでいる本を陽なたにならべて干し、鷹の羽の羽箒で丁寧に虫の卵や虫の死骸を払っていた父親の姿を想い出すと、大変にいい仕事だと信じていたらしいので、わからなくては済まないような気もする。
私の大好きなのは「花子」である。ロダンの家に学士らしい青年が、花子をつれて行って引き合わせる話である。地中海的な、フランス的な美が、明るく耀いていて、欧羅巴気ちがいであるせいか、私はあの小説を読むと、いろいろ好きでない小説たちの、茨や、背の高い痛い草の中を抜けて、明るい、清麗な場所に出たような感じがする。その場所は私の父親が晩年になるまで、憧れていた場所である。幼い時、父の部屋に入って行くと、父親は楓《かえで》や青桐の緑の影で、海の底のような部屋の中に、白縮《しろちぢ》みの襯衣《シヤツ》と、襯衣と同じ縮の下《した》洋袴《ズボン》〈袖口と足首のところは細い、付紐《つけひも》で結んである〉で畳に肱をついて座って本を読んでいたり、除虫菊の鑵の上に新聞紙をのせた枕で睡っていたが、その時父親は、その今書いた明るい世界に座っていたのだ。幼い私は、どこに座っているのかわからなかったが、たしかにどこかの、大変に楽しい、そうして大変に静かな場所に父が座っているのを感じた。父の背中に飛びついて行く私の心の中には、そのわけのわからない場所で、楽しそうにしている父への怒りがあって、父の心を私の方へ向かせようとしたようだ。そういう欧羅巴的なところに座っていた父親が、いつ私は、抽斎や、古本や、紙魚の世界に引越したのか、私は知らずにいた。(犀星は昔から庭師とロシア文学が混合したところにいたらしいが)だが私は誰が何と言っても植木屋や紙魚の匂いは嫌いで、父親の小説の中では「花子」が好きである。
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