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記憶の絵48

时间: 2020-03-30    进入日语论坛
核心提示:続・着物私が十五になった時、父親は、美しい振袖を拵えてくれた。母方の従姉が十七島田に結って写真を撮るというので、私は唐人
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続・着物

私が十五になった時、父親は、美しい振袖を拵えてくれた。母方の従姉が十七島田に結って写真を撮るというので、私は唐人|髷《まげ》に結って〈唐人髷というのは明治時代に雛妓《おしやく》が普段に結った髪で、下町の髪だったが、私の母はそのころ山の手の女の子が結った桃割れという髪は趣味が悪いといって、唐人髷に結わせ、高島田も私には背が高くなりすぎるからといって、結綿《ゆいわた》という、芝居で下町娘が結う髪に結わせた。唐人髷に結う令嬢はなかったが、結綿に結う時には山の手の女の子は上品ぶってひわ色ととき色なぞの布《きれ》をかけたりしたが母は真紅《あか》の絞りをかけさせた。私はどんなことをしても山の手の女の子の感じだったので、却って不思議な面白みが出た〉一緒に写したが、従姉も布地は縮緬だったが、柄は私と同じに染めた。父親が三越に頼んで染めた模様は御所解《ごしよとき》風の模様だったが、黒地に桜と紅葉の地紋のある紋羽二重に、模様も桜と紅葉を多く使い、所々に縫いを入れたが、そのころドイツに誂えた洋服にあるような濃い紅や藍色〈父は濃い紅は猩々緋、藍色は海軍|青《あお》といっていた〉、昔からある退紅色や白に近い肉色(黄色みをおびた薄紅色)、なぞに糸を染めて貰った。下着はさや形の地紋のある退紅色の紋縮緬だった。
その写真は特別によく写って、父親は「お茉莉は雛妓《おしやく》よ」と大機嫌だった。雛妓《おしやく》といえば、京都の舞子は観光用に残されているのに、東京の雛妓《おしやく》が児童ナントカ法によって廃止になったのは不公平である。昔は雛妓《おしやく》を見るのは一つの楽しみで、夏、明治座の廊下なぞに、薄《すすき》の簪《かんざし》や団扇形の簪を差し、紺地友禅の絽の振袖なんかのおしゃくを見ると、全くぞくぞくする程素敵だった。歌舞伎の女形のように腰が細くて舞子のように仇気なくない、ませた魅力だった。
十六になって婚約が定《き》まると、父親は博物館で調べたりして、宝づくしの模様の黒地の振袖と、松の芽生えを図案化した(松ぼっくりを松の青葉が抱いているような、茶せんのような模様)模様の紫地の振袖と、四つ花菱の模様の紺地のを誂えた。黒のには白羽二重、紫のには緋にさや形の地紋の紋縮緬、紺のには明るい緑の、裾には表と同じ裾模様の入った下着を重ねた。髪は花嫁が結綿というわけにもいかないので、島田だったが、背が高いからというので、いち[#「いち」に傍点]を低めにしたら、婚家先の親類の中に、下品だと言った人があったらしく、父親は怒っていた。
私は成長するに従って父親や母親の一種変った趣味がきらいになって、折角父親が苦心をして染めさせた振袖より、婚家で染めた平凡な、白茶の雲形に花模様の入った紫地の振袖と、白地に紅入りの熨斗模様の帯が気に入っていたし、母親が歎くほど肥って、顔が丸く、頬は紅くなってしまったのだから、親不孝な娘だった訳だ。他の他所ゆきなぞにも色々と注文をつけて、母親を怒らせた。
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