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記憶の絵50

时间: 2020-03-30    进入日语论坛
核心提示:写真写真というものがなんであるか? 二十世紀が半ばを過ぎた現代、それを知らない人はない。だが筆者と同様、なんらかの科学的
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写真

写真というものがなんであるか? 二十世紀が半ばを過ぎた現代、それを知らない人はない。だが筆者と同様、なんらかの科学的現象によって人物なり、花なりが、ゼラチンの硬化したようなフィルムなる物の上に焼きつくものだ、(焼きつくのか、どうなるのか知らないが、専門家が焼きつけ、と言っているのでそう書いたまでである)位の知識しかない人は多いのである。私はそれを信じたくないが、恐らくカメラがカチャリと鳴ると同時に、疑いを挾む余地のない、厳粛な科学現象が起って、被写体は正確にそれ自身と寸分ちがわない影像を、左右に穴の開《あ》いた硬化ゼラチンの上に焼きつけられるのだろう。それは物体のゼラチン体への正確無比な移植であって、それを疑うものは、宇宙を飛び歩く人間が撮影した月の写真を見て、こんなにでこぼこな筈はないと言い張る人間のようなもので、事実を否定する阿呆人間と言われても仕方がないだろう。だが、しかも尚私は、写真の科学現象を疑っている。それは何故かというと私の顔が、十五、六歳までは実物と同じ人間だということを誰も信じないほどの美人に写ったのが、現在では妖婆にうつるからである。一点|汚《けが》れのない白雪姫が、継母《ままはは》が化けた、邪悪の老婆に変ったのである。いくらか整って撮れたかと思うと、晩年の藤蔭静枝にそっくりである。
永井荷風の恋人に似て写るのは光栄であるが、八十五歳になり、脳出血を患って、少し頭がぼんやりとした藤蔭静枝が、弟子たちに髪を梳《と》いて貰って、枕を支えにわずかに起き上った所の顔にそっくりなのである。二十歳の上老けているのである。
その上に尚且悲哀なのは、私の写真を見る人も、みる人も、少しもおどろかないことである。彼らは口を揃えて、(よく撮れてますわ)、或は(まあ、お若く撮れましたね)と言って祝福するのである。私の方はというと、実物より一寸でも落ちて写っている他人の写真を見れば、(ずっと悪く撮れていますね)と言うのである。実物より綺麗な場合は、(そっくりね)と言うことにしている。ただここに二人の女の人がいて、私を悲哀から救ってくれた。一人は私が「ボッチチェリの扉」という拙い小説の主人公のモデルにした、魅力の充分な、シレェヌのように、人を惹きこむような微笑をする美人の矢野裕子さんであった。もう一人は或パァティで始めて会った女の人である。矢野裕子さんは私の写真をひと目みると、(まるでちがう)と、彼女特有の、可愛らしいアクセントのある言い廻しで、叩きつけるように言い、もう一人の人は私を見て、(まあお若くて、失礼ですけれどお写真の方は……)と語尾を消した。なんの失礼なことがありましょう。写真とそっくりね、と言って下さる方々こそ失礼である。実は悪く写るという恐怖が悪く写る原因らしく、知らないでいるところを撮った写真は四十位の可愛らしいばあさんである。
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