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記憶の絵57

时间: 2020-03-30    进入日语论坛
核心提示:家《うち》に来た役者たち或日父親のそばにいると隣りの花畑の部屋(草花だけの庭に面した部屋で、私と父のいた部屋は父の書斎と
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家《うち》に来た役者たち

或日父親のそばにいると隣りの花畑の部屋(草花だけの庭に面した部屋で、私と父のいた部屋は父の書斎といえば書斎だが、本棚もなにもなく、白河楽翁公の机に模して造らせた経机のような殿様の肱つき机を一寸幅を広くした位の小机と手廻りの書物やペンなぞがおいてあるきりで、二間開け放してあって、両方とも客間になっていた)との堺の敷居際に、体の容積だけ光を遮切って大きな男が突っ立っていた。恐らく玄関から案内されて入って来たのだろうが、私は俄かな大きな人間の出現に驚いて、その男を見た。額際から逆立った、真黒な太い髪は完全に鴨居にくっついている。骨太で、頬骨が高く、大きな口元さえ骨の一部みたいにごつい男で、又ごつごつの木綿の着物がつんつるてんで太い骨のような脛がにゅっと出ている。人に馴れない山から来た恐ろしい鳥のようだった。それは上山草人だった。メフィストの魔力で若くなったファウストの顔はたしかにそのゴツゴツした顔を白く塗ったものにちがいなかった。教会へ行くための、粗末だが聖《きよ》らかな白い衣《きぬ》を着た孔雀のグレエトヘンが、寄り添って、肩に頭をもたせかけ、緑色のアイ・シャドオのせいか青みをおびた眼の、瞳を上瞼《うわまぶた》にひきつけて、見上げているのが、なんともいえなく綺麗なのに、その寄りかかっているファウストの方が真白く塗った大猿のようで、しかも大きな口でにやりと微笑ったのには失望した。伊庭孝(いばたかしというのだろうが父母はいばこうと言っていた)と衣川《きぬがわ》孔雀とは、小味で、切れる役者だった。伊庭孝は白面《はくめん》の貴公子で、家《うち》へ来て話していても眼から鼻へぬける感じがあり、ようすも小粋《こいき》だった。父親と彼が話していると、ファウストとメフィストフェレスのようにも見えた。「出発前半時間」(巡業中のオペラ役者の楽屋に彼を恋した貴夫人が来て、ピストル自殺をする軽い芝居)の話が出て、母親に「奥さん、奥さん(その貴夫人役のこと)でお出になりませんか」と言うところなんかギャランだった。その時母親の顔がかすかに紅くなったが、こんなよろめきは許されるだろう。母親は父親に命がけのように恋していて、絶対によろめきはしないからだ。三十五、六の母は少女のように恋をしていたのである。父親はにこにこ微笑《わら》っていた。伊庭孝は或日、青葉の影で薄青い奥の部屋で父と向い合って座っていたが、父親が「君、どうしても止めるのか」と言うと黙って庭の方に顔をそむけた。彼が上山草人たちの劇団を抜ける話をしに来たのである。父親の淡泊な、それでいて、止められるものなら、という気持も(多分両方に親切な)たしかに見える、様子と、青葉の反射で青白かった伊庭孝の片頬とは、ひどくきれい[#「きれい」に傍点]な記憶である。父親の、柔《やさ》しい、だが淡泊な性質と、ふと後《うしろ》めたくなった伊庭孝の、一寸|狡《ずる》いような感じが、青葉の影の中に、浮き出ていた。
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