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記憶の絵67

时间: 2020-03-30    进入日语论坛
核心提示:洋行四十年前に私がフランスに行ったころは、まだ外国へ行くことは(洋行)であった。夫だった人(離婚しているのでこう書くので
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洋行

四十年前に私がフランスに行ったころは、まだ外国へ行くことは(洋行)であった。夫だった人(離婚しているのでこう書くのである)は一年先に巴里に行っていて、私は丁度ドイツへ行く兄と二人で後《あと》から行ったので、私は別に何かを勉強するために行くわけではなかった。私の父親も私に、フランス語を勉強してこいとも、何とも、言わなかった。私は奥さんだった。それも何一つ家事も出来ない、内助の功皆無の奥さん、という、ほんとうの無駄飯くいであった。それでも人々は「茉莉さんが洋行する」と言ったものである。夫は将来、フランス文学の教授をやるための勉強、準備のために行くのだから、立派な(洋行)である。そこで、その夫に従《つ》いて欧羅巴をうろうろ歩き廻ることになった私の旅行も、ついでに(洋行)と称してくれたのだろう。
私が巴里で、ピアノを習ったのも、フランス語を習ったのも、向うへ行ってから二人で思いついたことだった。しかしともかく(洋行)であるから大変である。心配の権化のような母親は、航海中船が沈没すると大変だから上等の浮袋を持たせてやろうと言い、(私の家では金がないのに、何でも上等を買った。父親が店に入って行って、上等という言葉を出さなかったためしがない。天晴れ、貴族ずきの人間であった)父親はふざけて、「太平洋の真中に浮袋につかまって浮いていれば、鱶《ふか》や鮫《さめ》が足からくうから却って大変だ」と言って、笑った。丁度そのころ夫の長姉の子供がはしかかなんかに冒った。父親と母親とは、そこへ私が見舞いに行けば伝染するかも知れない。もし伝染した病菌が潜伏していて、シンガポオル辺で発病したとすると、父親も母親も、夫も、駈けつけても間に合わない場所で死ぬことになる、という意見が一致した。(私の父母は、子供に関することではいつも琴瑟相和した)それで私を見舞いに行かせなかったので、夫の次の姉がカンカンに怒り、舅も困ったようだった。その怒った姉は愛子といって、私に一番やさしかった人だったが、怒りっぽかった。私は或日、夫の家から実家へ行く途で、怒っている姉の家に車を止めたが、姉は会わなかったので、玄関で帰った。舅は後《あと》で、「よく行ってやってくれた」と、一寸新派悲劇的に言ったが、私はそういう気分で行ったのではなかった。それに私は、世の中に大事件というもののない人間で、満十七ですべてに平気だというと偉い坊さんのようだが、どこか抜けているためらしいのだ。今だにどこか水が洩っているために、困った事件がよく起る。玄関で断られても大して悲劇とも思わず、そうかといって平気の平左でもなく、なんとなく車に戻った。怒った方も考えればもっともだったが、私の父親と母親の方としても一大事だったわけである。何にしても(洋行)の前は、いろいろと大変であった。
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