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記憶の絵81

时间: 2020-03-30    进入日语论坛
核心提示:巴里の中流社会山田珠樹の義兄の長尾恒吉が、私の渡欧が定《き》まると、言った。「巴里へ行ったら中流社会を見て来なくてはいけ
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巴里の中流社会

山田珠樹の義兄の長尾恒吉が、私の渡欧が定《き》まると、言った。「巴里へ行ったら中流社会を見て来なくてはいけない。仏蘭西は上流も下流も腐敗していて、中流だけで保《も》っているんだからね」と。私は暈りと聴いていたが、巴里の中流社会というものを見るのにはどうすればいいのか、わからないのだ。この長尾恒吉という陸軍少佐は何かというと私の家事をしないことについて文句を言ったり、教訓めいたことを言ったが、彼は目上の人間というものはそうするものだと、思っている、前時代にはよくいた人物だったのだ。
ところで巴里へ来てみると、中流どころか、中流の下《げ》の下《げ》にしても、私たちは大体普通の家庭の人間とは無縁であった。前にも書いたように羅典街《キヤルチエ・ラタン》の安ホテルに住んでいて、部屋代と、ホテルの主人夫婦への心附け以外は、送ってくる金は全部|書物《しよもつ》代と、芝居とオペラ、料理店、珈琲店《キヤフエ》なぞに遣《つか》い、珠樹は乞食のようなポオランド人の爺さんの縫った背広を着、私は百貨店《マギヤザン》のぶら下りを着ている、という生活であるから、交際する人間はすべて映画の(巴里祭《キヤトルズ・ジユイユ》)に登場するような人物たちである。私に教訓を与えた長尾恒吉自身にしても、(彼も後《あと》から巴里に来たのである)邸町に一戸を借りていて、その家主は或は、中流家庭だったかも知れないが、家主と交際している様子はなく、従って別に、中流社会を観察しているらしくもなかったのである。私は巴里の百貨店《マギヤザン》の食堂やボワ、又は公園なぞでよく、子供なぞを連れた中流家庭の男や、奥さんを見たが、大体巴里の中流の真面目階級の人間というものは、(少なくともそれらの中の大部分は)政治をやるとか、美術館の監理をするとか、又は観光局、学校、銀行、郵便局、公園の事務所、市役所、税務署なぞの上役級の仕事、詰り、雑多の書類、調書、切符、教科書、切手、なぞに関したことにたずさわっている人間であって、言いかえれば私には判らない仏蘭西語の書いてある種々さまざまの建物と、書類とに関係している人物たちである。彼らはたしかに巴里の重要な一部分であって、彼らがいなくては巴里の動きは止まってしまうし、巴里を味わうことも出来ない仕組みになっているには違いないのだが、彼らは、私や夫、夫の友人たちが見たいと思っている≪巴里≫の部分として、味わうべき(もの)、或は(人間)とは無関係な、少なくとも直接には無関係な人々である。要するに、それらの人間は私たち、ホテル、ジャンヌ・ダルクに群拠していた大正梁山泊の人々にとって、稀に街で出会い、ただ互いに無感動にすれ違う、というだけの存在であったのだ。而して、長尾恒吉の教訓は彼自身にとっても、私たちにとっても、不発の弾丸《たま》のようなものであった
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