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記憶の絵88

时间: 2020-03-30    进入日语论坛
核心提示:矢田部達郎矢田部達郎は疲《くたび》れた紺の背広の片手を洋袴《ズボン》の隠《かく》しに、自分の椅子の背を持ってぐいと後《う
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矢田部達郎

矢田部達郎は疲《くたび》れた紺の背広の片手を洋袴《ズボン》の隠《かく》しに、自分の椅子の背を持ってぐいと後《うしろ》へ引いた。ホテル、ジャンヌ・ダルクの食堂には透明な巴里の明《あか》りが、漂っていたが、彼が椅子を後《うしろ》へ引く荒々しい音と一しょに、その明りは漂っているというよりどこか張り詰めた感じに、変った。ショミイが一緒に入って来て彼と筋向いに掛けたからだ。そうして可哀そうなルイズが彼の隣の椅子にいたからだ。「メシュ、ダァム」(皆さん今日は、の略である)。矢田部達郎は両掌を卓子の上に軽く握って置き、眼をチカリと光らせて山田珠樹を視た。「ゆうべは」すると山田が言った。「眠ったかい?厭な奴だよ君は。議論の行手《ゆくて》に陥し穴をしかけておいて負かしやがるんだから」。矢田部達郎は紅い唇でにやりと微笑《わら》うと肉汁《スウプ》の匙を取り上げた。一高経由帝大卒の心理学者である矢田部達郎は、十年を数えたばかりで、すっかり大正の色に変ってしまった中で明治人間のスケエルの偉《おお》きさをがっちり[#「がっちり」に傍点]体につけていて、彼の傍若無人の恋愛状態は、周囲の誰にも既に家常茶飯事《パン・ドウ・メナアジユ》となっていた。蝋涙《ろうるい》の滴《したた》る瑕《きず》だらけの机の上で、一晩《ひとばん》でショオペンハウエルを平げる、といった、明治後期の一高の寮生の、一種野蕃な知性をもった魅力が紺の背広の下にまだ荒々しく息づいている。こう言っても現代の読者には一つの明瞭《はつきり》した映像《イメエジ》が浮ばないかもしれないが、当時の巴里で、矢田部達郎が発揮した大正初期の一高的な魅力は、昭和のジェムス・ディーンの原型と思って貰えば略《ほぼ》当っている。(彼にはディーンの幼児性はなかったが)動作は荒々しいが、ひどく洗練されている。気概と自信が荒鷲のように内に羽搏《はばた》いている彼は、ニジンスキイの女弟子のロオゼンシュタインの家で友だちが能を演って見せ、そこへニジンスキイ夫妻が見に来た夜も、一高生的背広に捩《よじ》れたネクタイで、風呂敷に包んだ即製の能衣裳を持って現れ忽ちロオゼンシュタインの心臓を捉《とら》えた。箕作《みつくり》新六の子供の光子のナンスだったフリィダ、ジャンヌ・ダルクの女中のエルネスチィヌ、すべて矢田部崇拝患者で、憧憬の眼差しはいつも彼を囲んでいた。だがはっきり恋愛をしていたのはルイズとショミイである。「今日は微笑《わら》わないの?」矢田部達郎は俯向いて肉汁《スウプ》をすくっているルイズの口元を覗きこむようにして、言った。「君の可愛らしい唇で」。(ヴォオトゥル、シャルマントゥ、レェヴル)という彼の発音はショミイに習ったばかりで完全である。ルイズはわずかに微笑った。睫毛は伏せた儘である。シュニッツレルのクリスチィネは、大正十年の巴里にはまだ、生きていた。私は私の父親の訳した北欧や独逸の近代劇の舞台面がそこにあるのを見た。彼がその頃の役者でなかったことが口惜しいほどだ。彼が歌う、メフィストがグレエトヘンの窓の下で歌う誘惑の歌は、凄味があった。彼は私を、愛する山田の奥さんとして愛していてくれ、私も彼を慕っていた。彼は悪魔の奥底に、素晴しい善良を持っていた。
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