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記憶の絵93

时间: 2020-03-30    进入日语论坛
核心提示:父の死大正十一年の春、私と山田珠樹とは巴里のギャアル・ドゥ・ノオル(北駅)から、ホオムに売りにくるパニエ〈茶色のボオル箱
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父の死

大正十一年の春、私と山田珠樹とは巴里のギャアル・ドゥ・ノオル(北駅)から、ホオムに売りにくるパニエ〈茶色のボオル箱に赤葡萄酒一本と、薔薇色のハムと橄欖《オリイヴ》色の胡瓜の酢漬を挾んだコッペが入っている〉を買いこみ、ドオヴァアに向った。スエズの運河を通った時以来二度目に、たしかに地図の上を通っていることを感じながら、カレ=ドオヴァアを大揺れの船で渡り、イングランドに上陸、倫敦《ロンドン》に着くと、ホテルは病院のように真白、料理は味がなく、人々は柱のように背が真直ぐに高く、洋杖《ステツキ》やこうもり傘と一緒に棒のように歩いて、人を細長い鼻の穴で見下ろすし、面白くない街である。ファイブ・オクロック・ティ(五時のお茶)なるものを必ず摂るという習慣があり、日本の戦前の三好野の如き大衆的な菓子店が街の方々に散在していて、五時が鳴るとサッと満員になり、人々は不味くも美味《おい》しくもなさそうな顔で菓子をたべて出て行くという妙な国民であるが、その菓子店の一つに或日私は寂しそうな顔で、モソモソ菓子をたべていた。山田珠樹が「独逸へ行こう」と言い、私は黙って肯いた。私は倫敦のホテルで父の危篤、と死との二つの電報を受け取ったので、その時はその直後だった。父親は自分が死ぬまで憧れた欧羅巴で青春を送っている娘を考えて、決して病気のことも死のことも報らせてはいけないと、母に言ったが、長男の兄が伯林《ベルリン》にいたので母親は長男である兄に報らせない訳には行かなかった。又、母親は恋人の死で混乱していて私に報らせるなという言葉を添える余裕がなかっただろうし、兄は兄で当時は母親が自分より頼っている珠樹に報らせないわけには行かなかったのである。「キトク」の電報が来た時には私に言わずにいたが「シス」の電報が来た時、珠樹は私に言った。「パパが病気で、大変悪い」と、言ったのである。それは夜中で、倫敦のホテルの真四角な窓から月の光が流れて、掛布の皺がはっきり見えた。一晩泣き通しに泣いた翌朝、私は今直ぐ帰るから船を頼んでくれと言った。珠樹は朝飯を辰野隆の部屋で食おうと言い、私を彼の部屋に伴れて行った。「茉莉子さん、パパの病気は船で帰る間には直るものなら直っているし、駄目なら間に合わない。茉莉子さんは今パパの娘であると同時に珠樹君の奥さんである。今帰ると珠樹君の勉強が中断する」と言った辰野隆の言葉で、帰り着かぬ前に死ぬのだと覚った私は、巴里に帰ったらブウランジェさんと勉強する約束が出来ているということを電報で報らせてくれと、頼んだ。辰野隆は「長いのを打って来ます」と言い、外套を来て出て行った。そうして大分経ってから帰って来た。菓子をボソボソ噛んでいる私の頭に東京駅で私を見て肯いた父親の顔が浮かんでいた、又、(もう一度、欧羅巴へ行きたい)と何度も言った、彼の言葉が私の胸を苦しくしていた。これから彼の永くいたミュンヘンや伯林に行くのだ、という、深いなつかしみだけが、その時の私をなだめていた。
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