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もめん随筆01

时间: 2020-03-31    进入日语论坛
核心提示:東京の女・大阪の女大阪にゐた時分、東京から転任してきた新聞社の人が大阪には美人がゐないと云つてこぼしてゐるのをきいたこと
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東京の女・大阪の女

大阪にゐた時分、東京から転任してきた新聞社の人が大阪には美人がゐないと云つてこぼしてゐるのをきいたことがある。阪急電車の神戸線にお乗りになつたら、とさしで口をすると、僕はその電車でかよつてゐるのですといふ返事であつた。商売柄花街との縁も深い人なのになほかつ大阪には美人がゐないと断言してはばからぬのである。灘五郷の銘酒さへ最上品は東京へとられてしまつて、本場へ残るのはその次ぎの品とかいふ話もきく程で、何によらず東京は最上品の集中場であらうが、しかし又東京へ行つてからいろいろに混合されるらしい最上酒よりも、地元に残されたその次ぎの品にかへつて純粋な酒の味があるやうに、大阪には大阪の美人がゐるにちがひないと思ふのだが、それならばとひらきなほつて何処にゐますかと問ひかへされるとこちらが当惑する。どこにでもゐませうと答へるよりしかたがないからである。
それから一年程たつて東京から転任してきた若い会社員がやはりおなじ事を云つた。「東京ではいたるところに——つまりバスの中でも省線電車でも街を歩いても必ずひとりは美人がゐますがね。そして一週間に一度ぐらゐはあツと思つて一ト眼で惚れこんでしまふやうな美人に会ひますが、大阪へきてみるとさつぱりそんな人がゐませんね。憂鬱ですよ」
街を歩いてゐる美人は彼女自身でも気づかぬあひだに自然に街の花となつてゐるわけで、結婚の未来をもつ若いサラリイマンたちにとつては、毎朝の一杯の紅茶か珈琲とともに、なくてはならぬ存在であるらしい。この人も阪急の神戸線で大阪へかよつてゐるので、そんなに美人に会はないのは時間がわるいからに相違ない、おひるまへの十一時頃から一時頃までの間に乗つてごらんなさいと私はすすめたが、さて自分が東京へきてみると、時も処も超越してまつたくいつ何処へ行つてもかならずひとりやふたり美人を見かけぬ事はないので、東京の美人といふものはいつでも街ばかり歩いてゐるのかと変な錯覚を起した程であつた。だがバスの中などであまり近近と顔をあはせて長い間一しよに乗り合はせてゐると、はじめは美しいと思つた人の顔にもだんだんあらが見えてきて、紅や白粉やまゆずみをおとしたあとの素顔はなんとなくざらざらしてゐるやうにおもはれ、大阪の女の人の一やうにきめのこまかな、さよりかなんかああしたすきとほるさかなのやうな、あぶらの程よくのつたむつちりとした肉つきを好もしくおもひだすのである。美人をみる眼もいろいろで、先年東京へ遊びに来た大阪の叔母さんは、東京は美人のゐないところだといひ、事のついでに東京の女は染めのわるい着物をきてゐるとわらふのである。
この叔母さんは——叔母さんといつてももう六十近い老婦人だが、おうやうに肥つてぬけるやうに色が白いためいくつ位とはいへないがとにかく若やいで見え、鼻すぢがとほつて双頬のふつくらとしてゐるあたりやはり大阪美人の名残りをとどめてゐる。若い時はうつくしい人であつたさうである。富裕な家に生れ富裕な家に嫁いで一生生活の苦労をしらぬ彼女は、おのづから自負心の強いのも無理からぬ事ではあらう。叔母さんが東京見物の第一日第一番に私に案内させたのは日本橋の山本であつた。そこで彼女は上等の海苔を百円あまり買つた。私は海苔ばかり百円も買つてどうするのだらうと驚いたが、その中へ包み紙を五十枚程入れておいてほしいと注文してゐるのをきいてああとうなづけた。三でふ五帖十帖とそれぞれに包みわけてお土産に配るのである。海苔は鑵に入れて贈るものとばかり思ひこんでゐた私は、百円もの尨大な海苔ををばさん一人でたべてしまふかのやうに思つて驚き、鑵代の倹約といふ事には気がつかなかつたのである。
そこを出て二人は上野へ行き、やがて動物園にはいつた。をばさんは河馬を見てこんな面白いものは大阪にはないと云ひ、三十分の余も檻の前に立つて河馬が醜い口をがばつとあけてあくびをするのを熱心に眺め入るのであつた。あまり長いあひだ起つてゐたのでをばさんはすつかり疲れてしまひ、これから地下鉄に乗つて浅草へ行きませうかと行つても、自動車ですうつと町中まはつて見ませうかと云つてもどれもこれもいやで、私はかうしてゐるのが一ばんよいとベンチに腰かけてみかんをむいてゐた。お姑さんとお嫁さんがならんだやうに、しよざいなく私もそこに腰かけて風に吹かれてゐたものである。
木挽町の宿へ帰つてきて一ト休みしてから、夜の銀座を歩きませうと誘ふとをばさんはもう動きたくないといふ返事である。ツイそこですよ、二町とありはしませんよと云つても、銀座は朝とほつたからもうよいと云ふのである。別行動をとつてゐた叔父さんが帰つてきて、浅草へも銀座へも行かなかつたときいていやな顔をした。私は自分の案内下手を恐縮した。
東京劇場のこけら落しがあつた春で、をばさんと私は翌日そこへ行つた。満員であつた。ここでこそ東京の美人を見てもらはねばと私は幕あひごとにをばさんを廊下へ誘ひださうとするのだが、をばさんは初めから終りまで行儀よくきちんと椅子の上にすわりこんだまま決して動かうとはしないのである。絵はがきも土産ものも私に買はせて食事の時より席をたたず、それで何も見てゐないのかとおもふといまこの傍を通つていつた人はこんど貰つたうちの嫁に肖てゐる、しかしあの人よりはうちの嫁の方が美人だといふのである。くらべられたのは細おもての鼻すぢのとほつた人であつた。
老夫婦は翌朝はもう松島へゆくために、木挽町から昭和通りを上野まで自動車をはしらせてゐた。その自動車の中で朝の早いひつそりとした町並を眺めながらをばさんのいふには、東京といふところは町幅ばかりひろくてそのわりに人出もすくなくて一向にさびしいところだ、道頓堀や心斎橋や堺筋やあんな人の多くて賑かなところはどこへいたかてあれへん、つまらんところや。そらそうやと叔父さんがそれを受けて、東京の人は一たいに大阪の人ほど遊び好きでないと見える、そやけど人の多いすくないを云ふのやつたら朝の八時か九時頃東京駅の前へ行つて起つてみてゐるがよい、あの中から吐きだされてくる月給取りの数といふものは何千何万あるものやら、その中には女子《をなご》も交つてまるで人間の市がたつたやうなものぢや、あれだけは大阪では見られんけしきやな。叔父さんは電気倶楽部であつたか工業倶楽部であつたかとにかくそんな処へ招待されていつて丸ノ内界隈を見てきたので、実感かそれとも他から注入された感想かいづれにしても東京はつとめ人の町だと叔母さんにいひきかせてゐるのであつた。
つとめ人の町といへばそのとほりで、職業婦人の数の多い事も大阪の比ではない。したがつて他人に見られるための化粧がうまくなるのも道理であらう。大阪の女はなんといつてもまだまだ家の中で旦那さんひとりを対象に生きてゐると云つても過言ではない。大阪には貴族階級がないのだから万事くだけてゐるだらうなどと思つたら大ちがひで、縁談などでも格式や家柄のやかましい事は想像の外である。一つ家の中でも主人に絶対の権威がある事は封建時代そのままで、先年私達が初めて大阪に住んだ時、夫の生家から手伝ひに来てゐた女中が帰るとすぐ、夫は生家へ呼ばれて家兄からこんなことをいはれた。「おまへの家では細君も子供もおまへとおなじ食卓につくさうだが、それでは家長を敬ふ家族主義に反するし、第一家庭経済の上からいつてもさういふ事はよろしくない……」
たべものにまで差別をつけられてそれでよく我慢ができると思ふのは私達のせまい考へで、細君は細君なりにそのへんの事はよく心得てゐてふだんはつましい食事で辛抱し、たまたま買物に出た時など下はデパートの食堂から上は「いせや」や「つるや」あたりまで女同士誘ひあはせてたべに行くのが楽しみのひとつとなつてゐる。東京なれば夫婦が肩をそろへて行くところであらうが、大阪では男は男同士女は女同士、はつきりと線がひかれてゐて、亭主を大切にする事はよそのみる目もうつくしい……とはいふやうなものの多少は舌たるい感じがせぬでもない。東京生れの気の勝つた細君に閉口して別れた後、今度もらふ時は気のやはらかな関西の女をもらひたいと云つた人があつたが、さて実際にもらつてみたらどうであらうか。私の身内には亭主を大切にするあまり旦那さんのおかずは全部別鍋でこしらへるといふ細君があつた。ある時お客があつて台所でお膳をそろへてゐると、猫が出てきて鯛のつくりみをなめはじめた。あれツと目ざとく見つけた女中が猫をおひながら、御寮ンさんどないしまひよとたづねると「しやうがない、それやつたらええ方を旦那さんにつけて、猫のなめたアる方お客さんにつけとき」猫がなめても味に変りはなかつたであらうが、あいにくとその日のお客は主人の伯父にあたるいはばそこの家では目上の人であつた。一しよに台所に出てゐて細君の言葉をきいた親戚の若い娘が多少憤慨してその話を自分のうちへ持ちかへつたので、あそこの家へはめつたにお客にも行かれへんと親類うちの笑ひばなしになつたが、それでもそんなにまで夫を大切にするといふ気持には好感を持たれてゐた。大阪の多少余裕のある家の主人はみなさうであるやうに、そこの主人も放蕩者である事に於ては人後に落ちなかつたが、さうした夫にまめまめしく仕へてゐる細君の心づくしは、近松の浄瑠璃に出てくる天の網島のおさんなどをしのばせ、末ながいちぎりをうたがふ者もなかつたのに、一たん夫が没落して昔日の体面を保ち得ずとなるや否や、その細君はふらりと家を出て行衛をくらまし、やがて離縁の請求状をよこすやうにさへなつた。九條武子夫人に肖て端麗な人であつた故新しい縁の見つかる事も早かつたのであらう。で、さうなつてみるとそれも又仕方のない事と周囲の者もあきらめてゆるさうとする気もちのあるのは、やはり結婚が個人と個人の結びつきではなく家と家との縁である事に起因するせゐかともおもはれる。亭主関白もその家の富が細君の実家と釣合のとれてゐる間だけの事で、一たん没落の経路を辿りはじめると亭主に亭主の資格は失はれてしまふのである。あれ程よくしてくれるのだからなどと男の方で細君の実意を自惚れてゐると足を掬はれる。亭主の放蕩はゆるしても貧乏はゆるしがたいのである。
一たいに零落した男をたてすごすのは本妻よりも妾の領分となつてゐるやうだがそれとてもすこしは男に見どころのあるうちの話で、はつきりと末の見込がたたぬときまると、女はぷいと身をひるがへして余裕のある男の手へ逃げてしまふ。日陰の出来事だけに会ふも離るるもたやすく、なかにはさういふ女のころげこんでくるのを待ちかまへてゐるずるい男もゐるのである。多額の落籍料は先きの男に出さして自分は手をぬらさずに女を獲ようとする魂胆である。私の知つてゐる限りでも、十年の余も好きな男の世話になつて贅沢のかぎりをつくし、小春治兵衛のやうに美しく死にたいと口ぐせのやうに云つてゐた女があつたが、いざとなるとやはり別れて他によい旦那を見つけた。それを当然の事として自他ともに怪しまぬのは、大津絵の唄の文句にも金子よりだいじな忠兵衛さんとあつて、生命より大事とはいはぬやうに、金子《か ね》が人生の一歩手前のものではなくて最後のものであるところの大阪気質の現はれで、世人は去つた女をとがめるよりも逃げられた男の無能を嘲笑する。考へやうによつてはそれだけやはり女が骨董品同様に品物視されてゐる訳でもある。
金子を最後のものとする考へは大阪ばかりではない、ちか頃一般の流行らしく、東京のお嬢さんたちでも恋愛は恋愛としてたのしみ結婚は生活の保証のある男とでなくてはせぬなどと勇敢に放言してゐるけれど、いさぎよくそれを実行した話を耳にしないのはやはり口先きだけの事で、東京の女はそれほど実際的に勇ましくはなりきれぬところ、金銭を賎しんだ祖先の遺産があたまの中でまだ充分に清算しきれぬためであらうか。「そらなあをばさんわたしかて、親がゆるして財産をつけてあの人のところへやつてくれはるのやつたらよろこんで嫁《い》きまつせ。そやけど親のゆるしも得んと無一文でとびだしてどうして暮してゆかれます? 百円の月給取りでは活動ひとつ安心して見られしめへんやないか」いつぞや親類うちの娘さんにちよつとした恋愛事件がおきて、がらにもなく私がその説教役にひつぱり出され、さて何と云つて思ひ切らせたものかと思案してゐるあひだにかへつて相手の娘さんの方からすらすらと説教されて、まぬけな顔で私はひきさがつた事であつたが、そのいとさんもいまは巨万の富をかかへて幸福にくらしてゐる。きけばそのお友だちもみんなおなじ事で、恋愛と結婚とはおのづから別だといふ信条を遵守した人ばかりである。なかには千万円の紙幣を傍につんで写真をうつしたとかいふ家へ嫁いだ人もあつて、どんな贅沢も思ひのままであらうと羨ましがられてゐる。大阪のいとさんたちは口には何にも理窟をいはないが、黙つて決然と目的へ飛躍する。しかもその態度は、夏の夕べの蛾をはたき落す猫の如く、正確にして敏捷である。ねらひをあやまるといふ事がないのである。意地や張りやつまらぬ義理だてからずるずると深味へはまつて、一生あぢきない日を送るなどといふ事は、断じて彼女たちのとらぬところである。
むかし新橋でお座敷芸にさかだちのうまかつた妓《ひと》といへば、ああと思ひだす人もあるかもしれない。まだレビユウなどのはやらぬ頃に彼女は片足を高く鴨居のあたりまであげてみせたりするのが得意であつた。そんな風に気さくな性質だつたのである。落籍された旦那といふのがべつに好きな人でもないやうにきいてゐたが、そのうちに旦那が病気をしてどうしてかくらしの道もたたぬやうになると、彼女はかひがひしく昔の知己をたよつて、しやぼんや歯みがきなどの行商をして歩いた。もちろんそれで男をたてすごしたのである。好いた男なればともかくさまで心に染まぬ旦那のためにさうした苦労をかさねる事は江戸つ子の美徳といはうか。金子が最後のものとなつたいまの世の中ではかへつて悪徳かも知れぬ。
悪徳といへばこれもそのひとつで、赤坂から出てゐる妓であつたが、日本橋の大きな木綿問屋の息子さんで当時慶応ボーイであつた人とおもひあひ、いくら頼んでも親がゆるしてくれぬところから思ひあまつた二人は死場所を関西に求めてかけ落ちした。さうして須磨の海岸で、月の美しい夜、ざぶざぶと海の中へはいつていつたがまだ春先の事で水は冷たくはあり、容易には死ねさうにもなし、二人とも死ぬのがいやになつて又ざぶざぶとひきかへしてきたといふのである。ところでひき返してきて顔を合せてみると二人ながら狐つきがおちたやうな気もちで、それなりに別れてしまつた。大島の高かつた頃で女は大島の対を着てゐたが、なんの事はない、その二百円とか二百いくらとかの大島を、わざわざ須磨の海まで捨てにいつただけのものである。周囲のとしよりが、もつたいないことをする人だとたしなめると、「だつてさ、着物をぬいで死ぬ人もないでせう」と本人は朗かに笑つてゐる。としよりがもつたいないと云つた言葉のうらには、金子《か ね》にしようと思へばできる相手に何の要求も出さないで別れてしまつた事を諷してもゐるので、彼女は自分の純情を金子で換算されるのがたまらないのであらう、知らぬふりして、東京の何とか何とかでさつきの鯉のふきながしと爪弾きで唄つてゐた。まつたく五月の鯉のふきながしのやうな気だてで「その人に会ひたくはないの」とたづねると、「え。どうせ一しよにはなれないんですもの、死ぬか別れるか。——もう死んぢやつたんですよ」と笑ふのであつた。自殺でもするのでないかと周囲の者は警戒したが、そんな事もなくてすんだらしい。なぜか私を好いてくれてよく遊びにきたものであつたが、それでゐて往来で会ふとすうと顔をそむけて通るのである。ふしぎにおもつてたづねると、「だつて芸者なんかに知りあひがあつちや御迷惑でせう」その答をきいてふつと私の目頭はあつくなつた。いまはどうしてゐるかとおもふ。幸福であつてほしいとおもふが、あのやうに東京人特有の遠慮がちな、はにかんだ気持を多分にその胸に住まはせてゐるのでは、いつも人の知らない苦労をしてゐるのではないかと、案じられる。
それにくらべると大阪の婦人は、無遠慮といつてもよい程率直で、見も知らぬ往きずりの他人に声をかける位はなんでもない。「あんさんのコートこらなんちふ生地でんね」「どこの店でこさへはりましてん」ある年の冬、すこしばかり変つた生地のコートを着て出ると、あちらでもこちらでもさう問ひかけられてすつかりまゐつてしまつた事がある。それでもまともからきいてくれるのはまだよい方で、心斎橋のたしか寺世といふ店であつたと思ふが、女のあたまのものばかりあきなふ店で買物をしてゐると、突然私の左の袖が何かにはさまれたやうにグイと重くひかれた。驚いてふりむくと中年の奥さんが二人、両方から私の袖をひつぱりあつて、そのコート地を品評してゐるのである。私は呆気にとられてしばらく茫然とその奥さんたちのなすがままに眺めてゐたが、奥さん達は私の存在とコート地とは全然別種のものであるかのやうに悠然とその会話をつづけるのである。
「鹿の子やおまへんで」
「さうでんな、なんやゴリゴリしてまんな」
奥さん達は一枚の袖をつまんでみたりひつぱつてみたり撫でてみたり心ゆくまで鑑賞した末に、なんやわかりまへんなとやうやくその手を離してくれた。ふうとこちらの方で汗をかくやうな気もちであつたが、そのかはり大阪の婦人の着物に対する知識の深さはたうてい東京の女の及ぶところではない。西陣に近いせゐでもあらうが、おなじ友ぜんを見ても、これは千さうのものこれは千々のものとちやんと区別がつく。お召は矢代で帯はたつ村で、しまがらよりも織元の名の方を尊重して買ふのは、桐生のお召は柄《がら》は新しいがひけるときは膝がしらなどよく使ふところから切れてくる、やしろのお召はどこといふ事がなく生地一たいに弱つてくるからすこし位ねだんは張つてもこの方がよいといふのであつた。中年の女の中には、河合さんのお召はよろしおました、品《しな》がようて柄が新しうてとなつかしんで話す人もある。河合さんといふのは長塚節氏の菜種日記に出てくる長春居の河合さんである。よい織元でなかなか新機軸を出されたさうだが、おしまひには逼塞して物故されたとやら、さういふ話をきかしてくれる婦人達の口ぶりの中には何か親身なものがこもつてゐる。さういふ知識の一般にゆきわたつてゐる証拠には、デパートなどでも染織逸品会を催す折出品のひとつひとつに織元の名前が出してあつて、人々は丹念にそれを見比べてゐる。東京でも此頃はどうであらうか。私が大阪でそれを知つたのはもう十年も前の話で、この頃では東京の大彦の品など大彦好みとわざわざ一劃区切つて並べてあるので、東京にゐてさへ大彦を知らぬものも多いのに、その上に又黒の紋付きは東京の竺仙がよいなどと、あれやこれや大阪の婦人の豊富な知識にはあたまを下げるほかないのである。ただそれほどに殆ど専門に近い知識をもちながら、さてその着物を着た姿のすつきりとしないのはどういつたわけであらうか。どんなに盛装をこらした人でもどこか腰ひものゆるいやうなところがあつて、事実街を歩いてゐる女の中には帯どめがはづれて帯がほどけてゐるのにも気のつかぬ人さへある。空が明るく気候があたたかで物資のゆたかな土地柄から、そとに対して身をよろふ必要はすこしもなく、自然に解放的になるのであらうか。さういへば性的にも羞恥や秘密を知らずに育つて「あのなああしこのお母ちやんがなあ、あの末娘《こ い》さんと学生さんと一しよに寝かしはつたんやて。そんでややさんがでけはつたんやて」などと十八にもなるお嬢さんが友達の身におきたまちがひを家常茶飯事に話してゐる。わたしやおまへにほうれん草、嫁菜になつたら云云と幼ない子供に子守唄がはりに唄つてきかせてゐるお母さんもゐるのである。「東京へいたらなんやさうでんな、雨が下からふりますさうなな」と大阪の人は皮肉をいふが、まつたくその通り、雨風のはげしいむさし野に育つ少女は、荒い自然に抗するためおのづから小褄をキリリとひきあげて歩くのかも知れぬ。
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