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記憶の絵107

时间: 2020-03-31    进入日语论坛
核心提示:後記原稿紛失の記このたびは(こういう文章を書く時には、今度《こんど》はと書くより、この方がいいのである)。百人一首の中の
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後記——原稿紛失の記——

このたびは(こういう文章を書く時には、今度《こんど》はと書くより、この方がいいのである)。百人一首の中の一つを私の父が詠《よ》むのを聴くと、このたび[#「このたび」に傍点]はこぬたび[#「こぬたび」に傍点]である。
≪こぬたびはぬさもとりあへず手向《たむけ》山、もみぢのにしきかみのまにまに≫と、彼は詠んだ。(子供の時に聴いたのであるから、聴きちがえかも知れない)父が詠むと百人一首もいろいろ変っていて、≪ありあけの月をまちいづるかな≫は≪ありあけの月をまちいでつるかな≫になる。又、父が詠み手になると、百人一首を詠む時の一種の節をつけないのでなんとなく取りにくいのである。
無駄ごとはおいて、このたび、この(記憶の絵)という本を出すについては、吉岡実氏のお協力をわずらわした。だが、協力をして戴いたのに、大変なお厄介をおかけする結果となった。私という人間に何ごとかでかかりあう人々は誰でも、大変な厄介なことを引きうけたことになるのである。今度の出版についてはどんな厄介ごとが起ったかというと、次の如くである。吉岡氏が暑い最中を何度か、私の部屋の近くの邪宗門という喫茶店にお出でになる内に、本の造りのことも定り、頁数が少し足りないのを補うための書き足し十篇(三十枚分)も出来上り、推敲も終り、吉岡氏の夫人が、熊本日日新聞の切り抜きを一枚、一枚原稿紙に張って下さった部厚い原稿と、その三十枚の書き足しとは筑摩書房の厚いハトロン紙の袋におさまり、印刷所に廻すばかりになったが、書き足しをもう二三篇たそうと思い、吉岡氏も賛成であったので、その大きな袋を持って私は部屋に帰った。ところが大切な袋を屑屋が持ち去ったのである。私が本にする大切な原稿を部屋に持ち帰ったことは今までに数え切れぬ程なのだが、今度に限って紛失したのである。暑さに呆《ぼ》けたのか、(寒い時でも、丁度いい季候の時でも、春夏秋冬呆けているのではあるが)私はその袋を、部屋の入口の、屑屋に持って行かせる新聞紙の山の上に一寸載せておいて、部屋に入った。直ぐに部屋に入れるつもりだったのだが、私はそのまま書き足しの文章にとりかかっている内に疲れが出て、(この一年と八ケ月の間、私は何か書いている時でも、歩いている時でも、二六時中、睡眠中と好きな食べものをぱくついている時以外は、目下、二枚書き出したままで止まっている続きものの小説のことで苦悩しているので、時間、場所をえらばず睡りに陥ちるのである。邪宗門に何か書きに行って睡ってしまい、恥をかき、門限に起きて帰ることも屡々である=〈注〉熊本日日新聞にこの本の原稿を書いたのは三年前である。この本は睡りながら書いたのではないのである)睡りに陥ちてしまった。目が醒めて、ハトロン紙の袋が新聞の山とともに消えていることに気づいた時には、さすがの私も(私という人間は何が起っても動じないこと山の如くである。それは胆がすわっているからではなく、どこかが水が洩っているためで、考えるのに、神経が緊張する筋《きん》の攣縮度《れんしゆくど》が生れつき弱くて、弛《ゆる》んでいるためのようである)頭のしんが冷たくなった。直ちに吉岡氏にお報らせすれば、ハトロン紙の袋はまだ屑屋の家にあったかも知れぬのに、私はそのことにも心付かず、吉岡氏が呆れかえり、且つ内心で不愉快になられることを恐れて、三日間青息吐息でくらした。三日後、吉岡氏に電話で報告し、邪宗門でおめにかかった時には、ウェイトレスが病気ではないかと言って、傍へ来てきいてくれた程、私は妙な顔をしていたらしい。紛失を知って愕かれた吉岡氏と、屑屋の仕切場を四軒歩いたが、既に大切な原稿と書き足し十篇分とは袋ごと、どこかの溶解炉の中で溶けてしまった後《あと》である。それから、熊本日日新聞の東京支社にお願いし、熊本の本社の方と、支社の方とのご好意で写しを戴き、一方私は書き足しを苦心して再生して、一ケ月おくれてようよう印刷所に入れることが出来た。私は、紙屑の溜まり場を仕切り場と称することも始めて知ったし、その仕切り場を訪問したのも始めてだったが、屑屋の仕切り場というものはどれもどれも、ごみごみした町の横丁の、又その奥といったようなところに在るので、吉岡氏は道々、店の人なぞに尋ねては仕切り場の存在場所を探され、私は恐縮しながら氏の後に従ったが、その仕切り場探しは大変に面白く、私は絶望の中で興味を覚えた。今書いたように、世田谷、又は奥沢なぞのごみごみした町であるし、屑屋の仕切り場を尋ねては横丁から横丁へ歩くので、どこかフリイマン・クロフツの小説に出てくる人物の地味さと、燻銀のような味わいを、背広の感じにも、性格にも宿していられる吉岡氏が、牛肉屋の中僧や、トラックの運転助手のような男なぞに尋ね尋ね、露路から露路を歩かれるのを見ている内に、私はいつか、クロフツの「樽」や、「クロイドン発十二時三十分」の世界にいるような気がして来たのである。その日はひどく暑い日であったので、一つの仕切り場から次のところに行く時、吉岡氏はタクシを止められたが、吉岡氏は車の扉《ドア》が開くや否や、飛鳥のようにひらりと乗りこむのである。その素速さは三十歳位の人のようである。私は氏が三十の人のようにお元気なことを喜んだが実のところ心から愕いた。四十は幾らか越していられるとは思っていたが、伺うと四十九になられるそうであった。私は又改めて愕き直したのである。私は久しぶりで、小学校の時の牛若丸の唱歌を想い出した。≪ここと思へば又あちら、燕のやうな早業《はやわざ》に≫という、あの唱歌である。その日の次にお目にかかったのは氏と、高橋睦郎氏と、もう一人の青年と、私との四人で赤坂の「Mugen」に行った時であったが、私がその時冗談に、氏はレディ・ファアストでない今時珍らしい方であると言った。(全くのところ、私が六十を越えているとしてもレディにはちがいないのであるから、先に乗せて戴いてもよくはなかったかと、愚考した次第である)皆笑い出したが、氏の言によると、車を止めるところでない往来で止める場合、出来るだけ早く乗らぬと運転手にも済まないし、又危なくもある、ということであった。しかし、氏の後から森マリさんがごゆっくりと乗ったのであるから、氏の配慮はその日に限って無駄な配慮に終ったので、あった。
終りに臨んで、私の最初の本「父の帽子」の出版を引受けてくれた筑摩書房で、再びこの本を出版する運びになったことを、私は大変にうれしく思うと同時に、「父の帽子」を出版することにして下さった竹之内静雄氏に改めて感謝を捧げたい。それから私のこの特種な随筆を長い間連載して下さった熊本日日新聞社に厚くお礼を申述べたい。
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