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もめん随筆18

时间: 2020-03-31    进入日语论坛
核心提示:ポオの遺産晩の御飯のすんだ後卅分ばかり炬燵に集つて雑談を交すのが此頃の習慣になつてゐる。食後の雑談は昔からであるが炬燵を
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ポオの遺産

晩の御飯のすんだ後卅分ばかり炬燵に集つて雑談を交すのが此頃の習慣になつてゐる。
食後の雑談は昔からであるが炬燵をかこむのはこの冬初めての経験なので、子供等は珍しくて耐らぬのであらう、さあもう彼方へ行つて勉強なさいと一度や二度云つてみたとてなかなかきくものではない。ねえパパ、パパが鳳鳴義塾へ通つてゐた時のお話してよ、ほら、坂本さんとかいふお家で毎晩炬燵にあたりながらたべた柿の味が忘れられないつて云つたでせう、あのお話又してよとうまく父親の懐旧感をそそつて、卅分の約束が一時間にも二時間にもなつてしまふ。昔、私の父は炬燵といふものをひどく嫌つて、あれは人間の気持を退嬰的にするからいけないと排斥してゐたのを、いま初めて成程と感ずるのである。
私は炬燵の味といふものを知らずに育つた。もつとも北海道のやうな寒さのきびしい土地では炬燵なぞ防寒の役には立たないのであるが、それでもやはり大抵の家には内地風の炬燵があつて家中の者がそれへ集つてゐたやうである。お宅のやうにどこもかしこもストオヴばかりといふのは珍しい、まるで西洋人の家へ行つたやうで大変暖かくておかげ様で私共まで仕合せしますといふ出入りの人達のお世辞を、父は内心得意できいてゐたのかも知れなかつた。七十二歳で死ぬまで、しかも脳溢血で十年間も半身不随でゐながら洋服より着た事のない父は、西洋人の様だと云はれる事が何よりも満足であつたのであらう。子供の育て方もアメリカ風であつたらしく、我我の勤労に対してはその都度お金子を支払つてくれた。たとへばお正月の年賀状の上書きは一枚につき幾銭といふ風に。それから又上手に出来た作文や図画などもその出来栄によつてそれぞれ高く安く買上げてくれもした。
金銭を儲けるのはどんな馬鹿にも出来る仕事である、ただ難かしいのはそれをどう使ふかといふ事で、それ一つで人間の値うちが定まるのだと父はつねづね子供達を教訓したが、しかしさういふ父自身あんまりよい使ひ方をしなかつたと思ふのは、父には酔ふと必ず銀貨をばらまいてそれを子供達に拾はせる悪癖があつたのである。
身体の忙しい父はいつも殆ど家にゐる事がなかつたが、吹雪の続く二月頃の夜はさすがに大抵家で晩の御飯をたべ、猪口に三杯ほどの晩酌に酔ふと必ず例の銀貨まきが初まるのであつた。十二畳の居間一杯に敷きつめた絨毯の上にばらばらと五十銭二十銭十銭の銀貨をふりまいて皆に拾はせるのである。ラムプの光の届きかねるうす暗い隅の方に折折人の見残した五十銭銀貨があつたりして、きやつきやつといふ騒ぎを父はストオヴの傍でお膳を控へながら楽しさうに見てゐるのである。さうしてその父の傍に冷然と蔑すむやうにその騒ぎを眺めてゐる十二三の子が私であつた。しかしその遊びがすんだ後で父は必ず私の掌に相当の銀貨を落し、お前は他の姉妹のやうに金子を欲しがらないから大変よろしい、これはお前の態度を賞めて天がお前に下されたのだなどと云つてそれを与へた。
こんなに貧乏してゐてどうしてさう泰然としてゐられるんでせう、他人事ながらじれつたいと此間ある人が来て私を歯がゆがつてくれた。気がついて見ると成程途方もなく貧乏であるのだけれども、さてそれなればどうしようといふ気も起らないのは父の教育のせゐにちがひないのである。何にもしないでただ黙つて坐つてゐても父が銀貨をくれたやうに、何処からか誰かが私の手へお金子を入れに来てくれるやうな気持の習慣性で、それで泰然としてゐるのかも知れないのである。
それにしても子供達はどんな気持でゐるのであらうか、自分の貧乏は心柄で致し方もないけれど、子供に迄巻添の苦痛を味はせるのは親甲斐もない次第と恥入りながら半ばあやまる気持で、あなた達貧乏でつらくはないのときいて見ると、子供達は貧乏だと思つた事がないと答へて母親を驚かせた。「だつてママお金子がどんなに沢山あつたつて何にも費はないで蔵つておくだけなら貧乏とおなじでせう。お金子がすこしもなくたつて買ひたいものが何もなかつたらお金持とおんなじ事だわ」
金子は費ふために儲けるものだと云つた父の教訓が私のからだをくぐりぬけて、いつか子供達の方へ流れてゐたのであらうか。さう云へば私は不知不識父の遺風を受けついで冬の寒さはストオヴでばかり凌いで来た。去年の秋、飼つてゐた仔猫が病気をしてそのために初めて炬燵を買つたのであるが、猫は到頭死んでしまつて炬燵だけ残つたのである。仔猫は全身真黒でポオと呼ばれてゐた。それで私達は残つた炬燵をポオの遺産と称へて今年の冬から使ふ事にしたのだけれど、子供達があんまり離れるのを厭がつたりするやうではやはり止めた方がよいかとも思ふのである。しかし炬燵は四角いから親子四人の団欒には大変都合がよく、ストオヴでは何となく気が散るやうにも思はれてどちらがよいかよくわからないのである。
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