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もめん随筆19

时间: 2020-03-31    进入日语论坛
核心提示:日暦ヒメクリハマイニチマイニチトシオトルトシノクレニハシンヂヤウヨニンゲンハオシヨウガツニトシトツテマイトシマイトシトシ
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日暦
 
ヒメクリハマイニチマイニチトシオトル
トシノクレニハシンヂヤウヨ
ニンゲンハオシヨウガツニトシトツテ
マイトシマイトシトシトツテ
一トウオシマイニハシンヂヤウヨ
ニンゲントヒメクリトオンナシコトオシテイルヨ
 古い支那鞄をひつくりかへして調べものをしてゐると、大学ノートに交つて一冊、藁半紙をつづりあはせたやうな粗末な雑記帳が出て来た。ぱらぱらと何心なく頁を繰つてみると、紫鉛筆のたどたどしい片かなでこんな事が書いてある。子供の日記帳なのであつた。この童謡のやうな感想は、子供が六つの年の暮に鉛筆のさきをなめなめ、おぼつかない文字をあやつりながら自分で書き記したものである事を、私は思ひ出した。
その年のいつ頃からか、子供は日暦をはがす事に熱心な興味を持ち初めたのであつた。毎日茶の間の柱の下へ椅子を運んでいつて、それによぢ上つては暦をはがすのである。常にはいくら背伸びをしても到底届きかねる高い処へ、やすやすと手のふれる事がどれ程うれしかつたのであらうか、女中の誰かが何心なくむしりとつてしまつた時ひどく泣いたので、それ以来みんなが敬遠して日暦をはがす事は彼の日課の一つとなつたのであつた。ひどく動作の緩慢な子なので、毎朝玄関にある姉の勉強机の前から小さな椅子を持出してきて、それを又玄関まで返しにゆくのがなかなかの大仕事であつたが、人手を煩はさずに自分ひとりでそれをするのがいかにも愉しさうであつた。ピーターパンといふ映画が来てそれを見せに連れていつた時、大きな茸の家に住む愉快げな子供たちを眺めながら、坊やもいつまでもあんな風にして遊んでゐたいでせうと、こちらは大いに子供の心を察したつもりで云ふと、ううんと首を振つて、坊や早く大人になつていろんな仕事がしたいのと答へた。いまでは彼も中学の二年生となり、なかなかの怠け者であるが、早く大人になりたいといふ気持だけは変りなくつづいてゐるやうである。
「ねえ、明日《あした》はいつくるの。——坊やまだ一ぺんも明日に会つた事がないなあ」
さう云つて母親を返答につまらせたのもその頃の事であるが、彼は又かうも云つた。
「昨日はもう一生かへつてこないの? ねえ、坊やがもう一ぺん会ひたいと思つて、ぜひぜひ会ひたいと思つていくら待つてゐてももう決して帰つてこないの? ええ」……
大晦日のくれ方、掃除のあとのごみを裏庭で焼きながら、ああさうさう日暦ももういらないのだつたと父親が思出して云ふと、子供はたつた一枚残つた日附を惜しさうに抱へてきて、これも焼いてしまふのと元気なく云つた。その代り明日つから又新しい日暦があるからいいぢやないか。うんと子供はうなづいてゐたが、やつぱり元気がなかつた。しばらくして家へはいつて見ると、彼は茶の間の畳に腹這ひになつて、鉛筆をなめながら一心に書いてゐたのである。——ニンゲントヒメクリトオンナシコトオシテイルヨ。
まだ若い母親であつた私はそれを読むとふと胸がつまつて、一種の無常感にあやふく涙がこぼれかけ、年の暮といふものはこんな幼ない童児にもこんな事を思はせるのかと驚いた。だがいまにして思へば、幼ない童児であつたればこそ、そんな事も感じたのであらうと云へなくもないのである。
烏兎〓月は河水のやうに流れ、永久に会へない昨日と明日の間にはさまれて、母も子もいまはただ今日を生きる事にのみいそがしい。つくづく思へば身にあまる重荷をせおつて、日暦と競争で生きてゐる必要もなささうに思はれもするけれど、大人になりたいといふ願望が子供の胸から消えぬかぎり、やはり自分も生きてゆかうと思ふのである。今年といふ峰をひとつふみ終つて、又来年といふ新しい峰へ足をかけ
わが夜夜のいね難くとも
あけぼのに鳥啼くかぎり
わが敵の呪はんかぎり
抱く稚子の笑まふかぎりは
わが生きて世にあらまほし
 と春夫先生のうたはれたやうに、やはり私も生きたいと切実に思ふのである。
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