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もめん随筆38

时间: 2020-03-31    进入日语论坛
核心提示:女の紋章これはわたしが嫁入りのときに着たもので、いまはもう何の役にもたたぬけれど、ひよつとべうぶにでもしたら変つてゐて面
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女の紋章

これはわたしが嫁入りのときに着たもので、いまはもう何の役にもたたぬけれど、ひよつとべうぶにでもしたら変つてゐて面白いかもしれぬと、このあひだ大阪の姑《はは》からうちかけを一枚贈られた。何といふ生地なのか、このごろよく袋帯などに見かけるしぼの荒いうねのある織方のゴワリとした手ざはりで、うす藤の地いろに背中いつぱい花ぐるまと、それを曳きながら遊んでゐる唐子《からこ》が十人あざやかに染め出されて、ところどころどつしりと金糸の繍ひがはいつてゐるのである。織模様なればともかく、こんな厚地のしかもうねのあるものに、まるで描いたやうに染め出す事は一方ならぬ技術を要するのであらう。京都の千総で染めたものださうだけれど、牡丹の花びらの一枚一枚のぼかしぐあひ、桜の枝の薄墨をかすつたやうな筆の運び方など、そのままに下絵が眼に浮んでくる程くつきりとあがつてゐる。かういふものの下絵は大てい高名な画家に描いてもらふ事にきまつてゐて、その潤筆料だけでもなかなかの金額であるさうだが、姑はどなたに描いて頂いたのやら忘れてしもた、とにかくふるい話やさかいと自分の嫁入り支度などは前の世の話のやうに執着がない。その当時灘随一の物持ちの家に生れた姑は、豪華な嫁入り支度もとりたてて身にしみる事がなく、このうちかけも何枚かの中の一枚であつてみれば、細かい事は忘れてしまつたといふのも当然の話かもしれぬ。
着物は着るものであつて着られるものでない事は誰でも知つてゐる。だが、素晴らしく豪華な衣裳に着られるといふ事は、それもまた女にとつて素晴らしい快楽の一つではないであらうか。——私は姑から贈られた唐子のうちかけを眺めながら思はずさう考へたのであるが、しかし私自身はこのやうな豪華な衣裳に着られたよろこびはもちろん知らず、日常の着物をすらほんたうに着たといふ快感を味はふ事なく、夏は単衣の帯の下ににじみ出る汗を嘆じ、冬は寒さをしのぐ綿入れのおもさに起居思ひのままならぬをかこちつつ暮してゐるのである。わづかに春秋の二季かろやかな袷の着心地をたのしむだけであるが、それさへも新しくこしらへたものは自然とよそゆきの方へまはされて、常着はいつもふるいものを着てすますやうな事になるから、一向に感興もわいてこないのである。着物も廿年着ふるしてしまふと、今更ら何をこしらへてみてもふるい夫の顔を見てゐるやうにこれといつて心のはずむ事もない。
子供の時をふり返るとそれでもいろいろと、新しい着物をこしらへて貰つてうれしかつたり、着せてもらつて楽しかつたりした記憶があつてなつかしい。私の生れた札幌では小学校も女学校も木綿のつつ袖ときまつてゐて、父の郷里の秋田へ頼んで織らせたごぼう縞のつつ袖を着て通つたが、学校から帰るとすぐ秋田八丈の元禄袖と着換へさせられ、急に肩が軽くなつてふはりと身体が浮くやうな感じがするのを、毎日の事ながら着更へてしばらくは何か手頼りない心地がして落着かないのであつた。子供のときは柔らかい絹ものよりも手応へのある木綿の方がかへつてぴたりと身について気もちに添ふのではないであらうか。関西生れの私の母は、木綿ものを着せると肩がこるといつて通学着の手織じまにも裏は紅絹をつけてあつたが、それは無用の心配ではなかつたかと思はれもするのである。
ぜんまい織といふのがあつてやはり秋田で出来たのだけれど、ぜんまいの繊維で織つたものださうである。初夏のネルから単衣へうつるほんのわづかの期間だけ着せられ、私はそれが好きであつた。うす地のセルのやうな手ざはりで、鼠いろに黒のもやうのくすんだ柄であつたが、あの頃はさういふ色がはやつたのであらうか、真岡の単衣地にもおなじやうなうす鼠色のがあつてこの方は洋服に仕立てて着せられた。この二三年背中にかざりのある洋服がはやるやうだけれども、私がその時分に着た浴衣地の洋服もやはり背中に兵児帯でも結んだやうに、ともぎれで大きな蝶形のかざりがつけてあつた。そんな型はだれが考へたのか知らないけれど、中うろこといふ呉服屋があつてその店でこしらへてくれるのである。札幌といふところはもともと西洋人が寄つて設計した町であるためにいつまでも遠い国の匂ひが残つてゐて、子供たちが浴衣地の洋服など着てアカシヤの並樹の下を歩いてゐる姿は、何かのびのびと清新な感じがされるのであつた。道庁の或る事務官のお嬢さんが、年頃の姉妹三人そろつて純白なひだの多い洋服を着、したたるやうな並樹の下を散歩してゐたある夕暮れの一ときが、いまでもくつきりと映画の一トこまを見るやうに瞼のうちに浮ぶのである。
中うろこでよそゆきの洋服を一枚こしらへてもらつた。白地にこまかい花もやうをおいたろしあざらさで、高価なレエスを惜しげなく配してあつた。まるで昔の貴婦人の着るやうなこましやくれた服で、それを着るといつも急に脊丈がのびたやうな、ほんたうによそゆきらしい心地がして、大人になつたやうにうれしいのであつた。後年自家から火を失して何もかも焼いてしまつた中に、その服だけはもう誰も着る者もなくて土蔵の箪笥へしまひ忘れてあつたため、かへつていつまでも手許へ残るやうな事になつたのもやはり縁が深かつたのかもしれない。
その洋服を自分の手でちひさく縫ひちぢめ、五つになる長女に着せて私はその子とならんで東京駅の婦人待合室に腰かけてゐた。震災の前年の八月中旬であつた。閑散な午後の待合室にふと睡気ざすやうなぼんやりした気もちでゐると、突然入口のところに片上伸さんの豊かな姿があらはれ、片上さんはそのまま颯爽と私共の方へ歩いて来られるのであつた。キユツキユツと靴の音がして何か四辺を払ふやうな、舞台へ浮き出したやうな片上さんの歩きぶりを、異国の人をでも眺めるやうにぼんやりと眺めてゐた私は、まつすぐに歩いて来られた片上さんが私の前まで来て初めてピタリといふ感じに足をとどめた時、はつとそれが自分達の待つてゐた片上さんである事を思ひ出してうろたへた。私はびつくりしていきなり起ち上つたけれども、何をいふのだつたか忘れてすぐ又腰をおろしてしまつた。
「ほお! 麗子ちやんはきれいなお洋服を着てゐますね。」
片上さんは私の迂濶さを気にも留めぬやうに、挨拶をぬきにしてそのまま子供の傍へ腰をかけながら云はれるのであつた。「まるでお伽噺の国からぬけだしてきた王女さまのやうぢやありませんか。……」
それから片上さんは子供の洋服をなでて、これはろしあざらさですねとなつかしさうに云はれ、私はさういふ言葉のあひだにやつと自分を取戻してゐた。私の妹が片上さんのすぐの弟へ嫁ぐ事になつてゐて、しかもお婿さんは漢口の汽船会社につとめてゐてなかなか帰つてこられないので、夏の講演に支那へ行く片上さんがついでに妹を連れてゆくと云ひ出されたのである。普段はべつにおつきあひもなく、さういふ御縁で顔をあはせたあひだがらでは、殊に慌しい出立間際の待合室などで話らしい話もないのを、片上さんは如才なく子供の洋服などほめて話らしくしてをられたのかもしれなかつた。だがほめられたふる洋服は仕合せである。子供ごころに長女もその時の事をおぼえてゐて、あの洋服まだあるかしらと夏休みの一日に思ひ出してきくのであつた。見せてと云はるるままにつづらの埃を払つて取出して見ると、レエスも何もすつかり黄いろくなつてしまつて、いまでは仮装行列の役にさへたちさうではない。ふうむ、もうだめねとつまらなさうに鼻をならした娘は、ひよつと自分の子供にもう一度それを着せようと考へてゐたのかもしれないが、母子二代に役立つた洋服もさすが三代目までは持ちこたへられないのであつた。
それにつけて思ひ出されるのは子供のときに読んだ西洋の小説の中に、おばあさまからゆづられたレエスを婚礼の晴着に使ふといふ話のあつた事で、さういふ習慣は向うの国でもいまは遠い昔がたりに過ぎなくて、——第一レエスなどといふものがどんどん新しく上等の品が出来て昔のものを顧る必要などなくなつてゐるのかもしれないけれど、幼ない日の柔らかいあたまに沁みこんださういふ物語は、いかにも女らしい優しい人情を伝へてゐるやうな心地がしていつまでも忘れ難いのである。いそがしい今の世の中に、一枚のふる着を祖母から母へ又その娘へと代代に伝へてゆくなどなかなか望み難い事であり、又さういふ悠長さは人の嘲笑をかふ事であるかもしれぬけれど、私にはそのやうにして祖母から母へ母から娘へと大切にゆづられてきた着物は最早や単なる一枚のふる着ではなくして、代代の女の、——母といふものの濃まやかないぶきにあたためられた一つの魂のやうにさへ感じられてくるのである。
大阪地方では娘の嫁入り支度に母親の紋章をつけ、父親の紋章をもちひるといふ事はほとんどないやうである。父の紋章は男の子がつぎ母の紋章は女の子がつぐのである。関東では紋章といふものは一つにきまつてゐて、よそへ嫁げばすぐ又その家の紋章をつける事になり、行届いた婚家なれば婚礼の際にぜひ一トかさね自分の家の紋章のついた振袖を贈つてよこす習慣があるくらゐで、一軒の家は必ず一つの紋章で統一されてゐるけれども、大阪はさうではなく、姑の紋章と夫の紋章と妻の紋章と、一つの家に三つの紋章が対立してゐてべつに怪しむ者もないのである。さういふ風にしておくと万一不縁になつた際、もとの嫁入り支度がそのまま役にたつからで、これも関西人のそろばんから出た風習であると教へてくれた人があるけれども、私はさうは思はない。一家のうちで男と女と紋がちがふといふ事は、男の子は父親に女の子は母親にと、はつきり区別されてゐた封建時代の遺風には相違ないであらうが、しかしそれがいまではただ遺風であるだけではなく、かへつて女にとつての新しい勢力となつてきつつあるのではなからうかと思はれる。いつたい大阪といふところでは女はおもてむき一人前の扱ひを受ける事がなく、女子供とひとからげに次の間へおしやられてゐるのではあるが、しかしその反面、お家はんなり御寮人なり一家の女主人である人は隠然たる勢力を持つてゐて、ある点では夫や息子を支配さへしてゐるのである。これはひとへに大阪の土地柄から来てゐる事で、もともと商人でなり立つてゐるこの町では、細かいところまで気のとどく女の鋭い眼を商売上にぜひ必要とし、又さういふ婦人に尊敬の念を払ふ事に吝かではないのである。男尊女卑の思想は牢固としてぬき難いにもかかはらず、その一方には金儲けの腕のある女を自分より以上のものとして崇拝する気風があり、そこに何等の矛盾をも感じぬのが大阪人一般の通性であるために、お家さんや御寮人は次ぎの間にひかへながらも堂堂自分の紋章を支持してそれを娘につたへ、娘は更にそれを己れの娘に伝へ、そのやうにして女の紋章はまつすぐに孫から曾孫へとつぎつぎに伝へられて、無限に生きてゆく事が出来るのである。それを思へば東京の母親の、特別に自分の紋章といふものを持つてゐない事は夫婦の地位が同等であるためとわかつてはゐても何となく物足りぬ心地がされ、一抹の不安が感じられるのはなぜであらうか。
むかし自分が結婚する時は、まはりの人の反対をおしきつて自分勝手に生活をはじめたので、もちろん式服も紋章も考へてみた事はなかつた。むしろ一夜かぎりの衣服に千金を投ずる事のおろかさを軽蔑してゐたのであるけれど、いまとなつてはやはり自分にも一枚の振袖があつてその紋章を娘につたへる事は、決して無意味ではないと思ふのである。
結婚といふことはむづかしい。妹が支那へたつ時は片上さんの末弟の竹内仁さんも見送りに来てゐて、長身の細おもてにしじゆう微笑を絶やさなかつたが、気のせゐかその笑顔はへんに寂しさうであつた。仁さんはいい人だと妹はよく私に話し、許嫁の人とのあひだが面白くないさうだけれど、うまくいつてくれればよいと心配してゐた。そのお嬢さんといふのはいくつなのととしをきいて、まあまだ十六、それでは仁さんの方が無理だわと私は同情がなかつたけれども、仁さんの寂しさうな笑顔を見てからは、何とかうまくいかないものかしらと心ひそかに案じられた。仁さんはするどい自分のあたまを恃んで、自分の妻は少女の時から自分の思ひどほりに教育しなければならぬといふ意見を持ち、意見どほりにそれを実行してゐたのだけれど、局外者の私たちの眼からは、どうやら仁さんはその的をあやまつてゐるのではないかと気づかはれもするのであつた。いくら天才であつてもまだ廿ちそこそこの青年には、女の素質を嗅ぎあてる事はなかなかむづかしいのである。仁さんのお母さんは実に立派なお方であつたさうだけれど早く死に別れ、仁さんはお母さんのあたたかい愛撫を知らずに育つたのであつた。許嫁の人のお母さんを、あんな心のあたたかい人はないといつもほめてゐたさうで、その言葉をおもひだすと涙のにじむ心地がする。ひよつとすると仁さんは、お嬢さんよりもさきにそのお母さんの人がらを好もしく思つて、それでお嬢さんと婚約したのかもしれないのである。
仁さんがあんな惨事を惹きおこしてしかも自決してしまつたのは、東京駅で会つてから二タ月ぐらゐ後であつた。あんな物静かな人がと驚かれ、無口な人ゆゑかへつて思ひつめた気もちを察しられるのであつたが、それにしても仁さんにほんたうのお母さんがあつたならば、——お母さんが生きて居られたならばかういふ事にはならなかつたであらうと惜しまれた。仁さんのあの行動にはいろいろの原因があらうけれども私には何もかもお母さんのなかつたせゐと考へられ、仁さんが死んで十幾年になるけれども私はまだその考へをあらためようとはしないのである。子供にとつてはある場合、父の紋章よりも母の紋章の方が、ずつと重大な意義をもつと、私はひとり考へてゐる。
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