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もめん随筆44

时间: 2020-03-31    进入日语论坛
核心提示:よまき親類にお金持があつてよく何かとものをもらひます。着物だの帯だの、だがお金子はくれません、お金子をよこすとみんな私が
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よまき

親類にお金持があつてよく何かとものをもらひます。着物だの帯だの、——だがお金子はくれません、お金子をよこすとみんな私がたべてしまふと思つてゐるらしい。甚だ面目ない話ですが実際さう警戒されても仕方ない程私はくひしん棒に生れついてゐるやうで、時時どうしてこんなにたべたいのかしらと自分ながら持てあます。むかし上山草人氏がおぜんの上に廿いろほどの小ぶたものをそろへて、一とはしづつたべるといふ話をきいて実にうらやましいと思つた事がありますが、私のたべたいのもその流儀で、うまいものがただ一品さへあればといふ食通とはちがふのです。いつか見た維納の映画「会議は踊る」で、コンラツト・フアイトのメツテルニヒが朝起きてきて寝まき姿のままパンをたべるところで、ジヤムかマーマレードかまあそんな風のものでせうけど、何だかとろりとしたつやのあるたべものがいく種《いろ》も、きらきら輝く銀のいれものにはいつてならんでゐるのです。それをあつちから一としやくひ、こつちから一としやくひパンになすくつてたべるのを見てゐましたら、あんまりおいしさうで、おしまひには自分の身が儚なく情けなくなつてくるやうでした。
いろいろさまざまな味のものが一とはしづつたべたい。お椀、酢のもの、うま煮、おさしみに焼ざかなと、つまりいつでも会席膳でなくては満足しないのです。議会が解散したり選挙があつたりするとよく元老がたのたべものが新聞に出る事がありますが、どのお方も大てい五いろか六いろ揃つてゐて、お昼も晩もそんなのをたべてゐられるといいナと思ひます。
父親がやはりくひしん棒であつたと見え、それを主義と一致させてゐました。つまり衣は寒暑をしのげば足り、住は雨露を防げば足るといふのです。ひとり食のみは人間活動の源泉であるから努めて滋養分を摂らねばならぬ。この頃ならカロリーとかビタミンとかいふのですが、その時分は一口に滋養分といひました。だが父は滋養分に名をかりて美食をしたのかもしれないと思ふのは、糖尿病で死んだからです。
小さい時からしじゆう料理屋へつれていつてもらひました。御馳走は会席膳でなくてはと思ひこんだのもその影響でせう。忙しい人でしよつ中宴会があつて、お正月なぞは一晩も家にゐないで、その代りきつと折詰を提げてきます。ふはりとだしと青味がはいつてうまさうに焼けた玉子、キシキシと歯ごたへのあるまつしろなかまぼこ、焦茶いろのとりの何とか揚げ、ぶだうやあんずの砂糖煮、そんなものが翌日のおべん当箱にお雛菓子のやうにポツチリづつ詰まつてゐる、おべん当をひらくのが実にたのしみでした。それでいまもおべん当がとても好きです。
小説を読んでもそんなですからすぐたべものの事ばかり眼について、子供の時「紅葉全集」の中に題は忘れましたがお銀とお鉄といふ二人の姉妹の話を書いたのがありました。姉のお銀はきれうよしで、望まれて官員さんのところへかたづいてゆきます。その嫁入り先きへ遊びに行つた母親が、身分ちがひだとか何とかいふ面白くない話をきかされて帰つてくる。お鉄といふ妹娘がちやんと御飯の支度をしてゐるのです。肴屋さんがみそ煮にしなさいつておいてつたからと云つて、鯖のみそ煮とおはの漬もの。お鉄が香水の匂ひのする紙幣を見つけて、姉さんから貰つたんでせうとはしやいでゐる傍で母親は何か考へ考へみそ煮をちよつとつついたきりで、あとはお葉づけでお茶漬サラサラといふところがありました。その、鯖のみそ煮にお葉づけといふおかずが大そう珍しく、江戸つ子がたべるのだからイキなものにちがひない、大きくなつて東京へ行つたら何でもかんでも鯖のみそ煮をたべなくてはならないと決心してゐたのですが、さて東京へきてそれをたべて見ると、期待ほどにおいしくはなくて気ぬけがしてしまひました。しかしお葉づけは実にうまく、多分東京の菜つぱが独特の味を持つてゐるのではないかしらと思つてゐますが、菜つぱといへばやはり紅葉の小説の中に、心だてはやさしいのにきれうがわるいばかりに、理学士の旦那さんにきらはれる可哀さうな奥さんの話がありました。八百屋が御用ききにくると、奥さんの味方をする親切な女中と寄つて、邪けんな夫のために何か珍しいものをとえらぶところがあります、三河島のよまきもあらばと奥さんが気をつかふのですが、読んでゐて子供の私にはまるで見当もつかないのです。八百屋が持つてゐるからには野菜にちがひないとは思ふけれど、三河島のよまきは大根人じんごばう玉ねぎ、豆やキヤベツや白菜やじやが芋や、自分の知つてゐるあらゆる野菜のそのほかのものだと思ふと、実にふしぎでたまらない。お友だちの兄さんが東京の外語へ通つてゐましたので、手紙を出してきいてもらつたのですけれど、やつぱり知らないといふ返事でした。
やや長じて、三河島といふのは三河島菜の事だとわかりましたけれど、よまきといふのはやはり誰にきいてもわからないのです。夜播きといふ事かしらと一人想像してみたり、でも夜まくとなぜ柔らかいのだらうと考へたり、東京へ出てきてからは、折ある毎に八百屋でもたづね、小説を書く先生がたにもおたづねしてみたのですが、どういふものかどなたも知らないねと云はれるのです。二十数年わからぬままに過ぎてきて、いまではもうそれを知らうとは思ひませんが、おなじやうにわからなかつた事で、露地ものといふ言葉があります。それも東京へ出てきてから先生がたにおききしても御存知のお方がなく、何となく心ひそかに意を強くしたおぼえがあるのですが、この頃はちやんと新聞の家庭欄にのるやうになつて、知らない人の方が珍しくなつただらうと思ひます。
日本の小説よりも西洋の小説の方がどうもたべものの話が多いやうです。もつともこの頃の西洋の小説はどうか知りませんが、むかし読んだ飜訳ものにはお茶だとか晩餐だとか飲んだりたべたりする話ばかりあつて、西洋人は何だかつまらないお菓子ひとつでも皆よつて大さわぎしてたべるやうな気がしました。学校の帰りに友だちと二人でぶらぶら南一条通りといふ目貫の町を歩いてゐると、ある食料品店のかざり窓に、罐詰や西洋料理のお皿やバタ入れやいろいろ目新しいものがならべてあつて、その中に白いちりめん紙の四角いのにすみずみをあつさりと西洋草花なぞ染め出したのが、巻いたり重ねたりして置いてあつた。あれナフキンよと友達がいふのです。
ちがふ、ナフキンはきれで出来てるものよと私が主張すると、あーらをかしいナフキンがきれだなんて、うちのお父さま東京からあれとおんなじのを買つてらしたんですもの、ナフキンは紙よ。西洋の小説をよむとナフキンにアイロンをあてたり、頭文字をぬひとつてあるといふ事があつて、きれでないものを洗濯など出来る訳がないと思ふのだけれど、東京からと云ふ友だちの言葉は何よりも強い力で私をおさへてしまひ、ちがひますつて、ナフキンはきれだわと反駁する言葉に確信がなくなつてしまふのでした。それでもなかなか負けないで、おしまひには喧嘩別れになつてしまつたのですが、多分十二くらゐの時だつたでせう。ガラクタを入れるたんすの中に中幅のまつしろな西洋反物が一反はいつてゐて、ほどいてみると浮織の模様があり、その模様の具合からどうも日本の手拭のやうに一枚づつ切つて使ふものらしく、私は子供ごころにそれがナフキンではないかしらと考へ、家へ帰つて母にきくと、ナフキンなどといふものは知らぬと云はれました。その反物は父が、くにへ帰るふらんす人のところから買つてきたのださうで、お父さんはふきんにしろと云はれたけれど、ふきんには大きすぎるし、ふろしきには小さすぎるし使ひやうのないものだと母はもてあましてゐたのです。
その時分からぽつぽつ、ハムと酢漬のきうりのサンドヰツチといつたものの味をおぼえたやうです。テンピでかすてらやビスケツトを焼いてもらふと実においしいと思つたのは、やはり西洋の小説の感化なのでせう。日本の餡ものやお汁粉をたべたいと思つた事は一度もなかつたのですが、いつか長塚節氏の小説に、どこか田舎のちひさな町のちひさな医院で、暗いつりらんぷの下でお汁粉をたべながら主客が語りあふところがあつて、それを読んでから時どきお汁粉をたべて見たいと思ふやうになりました。お汁粉をたべたあとでおしたぢの黒くしみたお葉づけを手でつまんでたべるといふところがあつたやうです。何ともいへない素朴な味でした。
長塚さんの小説には「お房」の中にも金つばの話が出てきますし「土」ではそばがきをたべるところがフウフウと湯気がたつやうで忘れられません。毎日毎日どんな人間でも食事はするのですから、それを書くのはごくあたりまへの話でゐて、そのくせ一ばんむづかしいのではないかと考へます。それとも日本人にはやたらに人前でものをたべない習慣が残つてゐるため、それをくどくど書く事も煩はしく思はれるのでせうか。この頃は朝朝、横光さんの新聞小説「家族会議」を楽しみの一つにして眼をさますのですけれど、せんだつて重住家の法事のところで、さてどんな御馳走が出てくるかと期待してゐましたのに、余興ばかりで御馳走の事はなかつたので実にがつかりしました。一週間ほど、精進料理かしらそれとも普通の御馳走かなとひとりで考へこみましたが、横光さんは人物の着物の好みなどは可なりくはしく書いて下さいますので、ついでにたべものの方も読まして頂けたならと切望してをります。
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