まだ木の香のたつやうな新しい二階の縁側に、眼のさめるやうな友ぜんの蒲団のふくふくとほしてある景色はあまりに幸福さうで妬ましくなつてくるくらゐである。何の因果かさういふお家と向ひあはせに住みついて、夙川でくらした二年のあひだ、気にするまいと思つてもやはり気にせずにはゐられなかつた。借家ながらも家賃は五十円とか六十円とか相当なものなのに、奥さんと小婢と二人きり、いつも門をしめきつてひつそりと静まつてゐたからである。門にはただ槇とだけで名前のないのも気にかかつた。金持の家の新夫婦が一時の別居生活かもしれないが、それにしては旦那さんの姿が見えず、又ほかに訪ねてくる人のないのもふしぎであつた。初めのうち旦那さんは洋行してゐるのかもしれないと考へそのつぎには奥さんが胸の病気で出養生に来て居られるのかもしれないと思つた。ああそれで毎日お蒲団をほすのねと子供まで合点したが、しかし御病人のものにしてはその蒲団は派手すぎた。
秋晴れの一日に二階の八畳と六畳を開け放つて虫干しをされた。人気のすくない部屋いつぱいに眼も彩にさまざまな衣裳がかけつらねてあるのを、こちらの二階から眺めてゐると、明るい紅絹のうらや友ぜんのじゆばんの袖から何かしんとした一抹のさびしい匂ひがたつてくるやうに感ぜられた。派手な大しまが一枚、白絹の裏に紫紺の裾まはしをめぐらして、花やかな色どりの中にただ一人すつきりと若衆が起つたやうな感じであつたが、さういふ好みに何となく奥さんの人柄がしのばれて、ひよつと素人のお方ではないかも知れぬと思はれた。
たつた一度ちらりとうしろ姿をお見掛けした事があるきりで、まともに顔をあはせた事がないからはつきりとは云へないが、どうやらあくぬけのした美しいお方のやうな気がされる。月のうちに一度くらゐもう薄暗くなつた裏口から女中さんがかけ出して、お豆腐とおねぎを抱へて帰つてくる事がある。こちらの思ひなしかさういふ晩はお向うの電燈が急に明るくなつたやうで、かすかに笑ひが漏れてきたり蓄音機が鳴つたりする。ある朝珍しく階下の縁側のガラス戸があいて、浅黒く頬のひきしまつた長身の人が起つてゐた。さうしてその傍の籐椅子に奥さんの半身が見え、うつむいて紅茶茶碗をかきまはしてゐるらしい横顔の、白いうなじと旧式な束髪に結んだ髪の艶やかな色とが、烙きつくやうに眼に残つた。三十前後のその長身の人が御主人にちがひなかつたが、誰もそのお方の門をあけて出這入りされる姿を見た者はないのである。
お向うの女中さんが東京の新聞を借りにいらつしやいましたと或る時女中が二階へあがつてきて云ふので、私は眉をひそめた。こちらではさき様の事を何にもわからないのに、あちらでは私のところでとつてゐる新聞まで知つてをられるかと思ふと何となく不満な心地がしたのである。早速お入用の日にちの新聞を探して貸してあげたが、それから一週間ほど経つて思ひ出してきいてみると、お向うの女中さんは新聞を持つていつたきりまだ返して下さらないと云ふ。本来なら新聞なぞどうでもよいのだけれど、東京の新聞がなつかしくて取揃へてあつたので、一日でもぬけると何となく東京と自分との間にすきができるやうでいやであつた。私はそんな風の神経衰弱にかかつてゐたのである。奥さんが忘れたのかしらと思ひ、女中さんが忘れたのかしらと思ひ、たかが一枚の新聞を返して下さいと云ひにゆくのも大人げないとあきらめて、さき様が思ひ出して返して下さるのを待つてゐたが、到頭その新聞は返つてこなかつた。
貸家にしてはがつちりと親切な家のたて方がいかにも関西らしい感じがするので、ある日思ひついて二階の縁側へ椅子を持ち出し、一時間ばかりかかつて丹念にお向うの家を写生した。二階も階下もぴたりと硝子戸がしまつてゐてちらとも人影がささないから、ゆつくり腰を落着けて描く事ができたのである。描きあがつた鉛筆のその画は我れながら見事な出来栄えで、小村雪岱ゑがく以上かもしれないと上機嫌で壁へはりつけたが、油絵を習つてゐる娘が、私にはとてもこんな細かい線はかけないわと云つたきりで誰もほめてくれないので、すぐ又はがして鞄の底へしまひこんだ。
このあひだ探しものをしたついでにその画が出てきたので、久しぶりに壁へとめて見ると、ちひさな屋根をいただいたちひさな門がいまにも開いて、あの髪の艶やかな首すぢの白い奥さんが出て来さうでなつかしかつた。実際には一ぺんもそんなところをお見掛けした事がなくて過ぎてしまつたのだけれども。