まず信じられないのは、日本では、ブラック・タイのパーティーに、一名だけ招待することがあることだ。事実私は、私だけに宛《あ》てたパーティーの招待状をたくさん頂く。
正装した人々が集まるパーティーに、こちらも着飾って、しかもエスコートもなしに出かけて行くなんて、ものすごく奇異なものである。
第一、不便である。何しろ普段より高いヒールの華奢《きやしや》な靴をはき、ひきずるようなロングドレスである。スカートの裾《すそ》につまずいたりして、いつなんどき、ひっくりかえらないともかぎらない。エスコートの役割の重要なひとつは、レディの杖《つえ》ということにもある。
その支えの杖なしで、車を降りてから、パーティー会場の定められた席に着席するまでの、距離の長く感じられること、覚束《おぼつか》ないこと。
特に毛皮のコートをクロークに預けたり、出したりする際に、男が脱がせるのに手を貸したり、優雅に肩に着せかけたりしてくれないのは、実に惨めだ。公衆の面前で女が一人で、毛皮を着たり脱いだりするのは、それが毛皮のコートであるゆえに娼婦《しようふ》のような気分に落ち込むものである。
人を招待しておいて、このように精神的にも肉体的にも傷つけられるのはたまらない。だから私は、私一人|宛《あて》に届いたパーティーの招待は受けないことにしている。
ミスター&ミセス宛に頂いた招待状ならどうかというと、困ったことに、私の夫は大のパーティー嫌いで、特に、ミスター・モリ・ヨーコ的な扱いになっているのには、断じて出席しない。つまり、こちらモリ・ヨーコさんのご主人さま、と紹介されるのが頭に来るのである。モリ・ヨーコさんのご主人さまには違いないが、彼は歴としたミスター・ブラッキンであり、モリ・ヨーコは彼の嫁、すなわちミセス・ブラッキンなのである、と、夫はこう思っているのである。
事実、たとえば外国の社交場で、
「こちら、マーガレット・サッチャーさんのご主人さまです」とか、
「この方、エリザベス・テイラーさんのご主人」なんて紹介のしかたはしない。
ミスター・デスス・サッチャーとか、リチャード・バートン氏とか、ちゃんと男性の名前で紹介する。ミスター・サッチャーや、亡くなったリチャード・バートンは有名人であるけれども、たとえ有名人でなくとも、人を招待する側の人間としては、モリ・ヨーコさんのご主人さまが、ミスター、なんという名前であるのかくらいの調査はしておくべきであって、そのような気配りこそ、社交の原則なのである。と、私はそう思う。
かくして、社交の原則に欠ける日本に於《お》けるブラック・タイのパーティーに、私は夫のエスコートを望むべくもない。しかたなく、止《や》むをえずに出席するパーティーには、あらかじめ主催者の方に了解をとった上で、別の男性の同伴者と出席することになる。
この場合、エスコートの男性というのは、出来るだけ公の人がいい。自分の個人的な友だちとか、恋人だなんていうのは、主催者や、同じテーブルを囲む人々に対して失礼なことである。
少しは名の知れた、できることならハンサムでスラリとした男がいいのに越したことはない。
パーティーというのは、見せびらかしの場と私は割り切っている。オートクチュールのドレスを、めまぐるしく変えて現われる女性もいるし、アメ玉みたいな大きなルビーやエメラルドを、これみよがしにつけて来る女性もいる。同じように、エスコートの男性をみせびらかしたっていいわけだ。
ずっと前、岡田真澄さんとあるパーティーで出《で》くわしたことがあった。その時の私のエスコートは、新進の建築家であった。岡田さんが言った。
「日本て国は、まだまだ俳優の地位は低いんだよね」
あんなに素敵でモテモテの岡田真澄がそう言うのは不思議だった。
「どうしてそんなことを言うの?」
と私は訊《き》いた。
「だってさ、こういう正式のパーティーに、エスコートの口なんて、ひとつもかからないもの」
と彼は、さかんに社交的な笑いをあたりにふりまいていた私の連れのハンサムな建築家をじろりと一瞥《いちべつ》した。
「事実、あなただってやっぱりカッコのいい職業を選んでいるじゃないか」
と柄にもなく、彼はひがんでみせた。
そんなことがあったので、私は別の機会に、岡田さんではなかったがある有名な男優に、エスコートをしてもらったことがある。そうしたら、周囲の人々の視線の冷ややかだったこと。建築家だとよくて、俳優だとなぜいけないのか。岡田さんの気持ちが少しわかるような気がした。
日本の社交界というのは、そういうものがあるとすればだが、排他的なのである。非常に保守的で、結束が固い。
しかし排他的なハイソサイアティというものは、風通しがわるいから、むれて、退廃的な様相を帯びてくるものだ。
もう少し、遊びやユーモアのセンスがあってもいいと思う。人間関係のゲームがあってもいいと思う。スキャンダラスであってもいいではないか。どうせ一夜の遊びなのだ。
ほんとうにスキャンダルをひき起こすのはスマートではないが、スキャンダルめいているというのが、私は好きだ。
ブラック・タイのパーティーというのは着飾って、フルコースのフランス料理を左右の見知らぬ人々とにこやかに会話をかわしながら食べるものだ、という概念程度のものでしか、今のところないわけだ。はれがましいけど、ほとんど苦痛の世界だ。ありきたりの毒にも薬にもならない会話をかわしつつ、美味《おい》しいとはお世辞にも言えない、しかし高い料理を三時間もかけて延々と食べるというのは、拷問に近いと私は思っている。
この拷問に耐えるには、誰《だれ》かがスキャンダラスに振るまってくれなければ。日本のパーティー風景に決定的に欠けるのは、このスキャンダルの匂《にお》いである。
事実、たとえば外国の社交場で、
「こちら、マーガレット・サッチャーさんのご主人さまです」とか、
「この方、エリザベス・テイラーさんのご主人」なんて紹介のしかたはしない。
ミスター・デスス・サッチャーとか、リチャード・バートン氏とか、ちゃんと男性の名前で紹介する。ミスター・サッチャーや、亡くなったリチャード・バートンは有名人であるけれども、たとえ有名人でなくとも、人を招待する側の人間としては、モリ・ヨーコさんのご主人さまが、ミスター、なんという名前であるのかくらいの調査はしておくべきであって、そのような気配りこそ、社交の原則なのである。と、私はそう思う。
かくして、社交の原則に欠ける日本に於《お》けるブラック・タイのパーティーに、私は夫のエスコートを望むべくもない。しかたなく、止《や》むをえずに出席するパーティーには、あらかじめ主催者の方に了解をとった上で、別の男性の同伴者と出席することになる。
この場合、エスコートの男性というのは、出来るだけ公の人がいい。自分の個人的な友だちとか、恋人だなんていうのは、主催者や、同じテーブルを囲む人々に対して失礼なことである。
少しは名の知れた、できることならハンサムでスラリとした男がいいのに越したことはない。
パーティーというのは、見せびらかしの場と私は割り切っている。オートクチュールのドレスを、めまぐるしく変えて現われる女性もいるし、アメ玉みたいな大きなルビーやエメラルドを、これみよがしにつけて来る女性もいる。同じように、エスコートの男性をみせびらかしたっていいわけだ。
ずっと前、岡田真澄さんとあるパーティーで出《で》くわしたことがあった。その時の私のエスコートは、新進の建築家であった。岡田さんが言った。
「日本て国は、まだまだ俳優の地位は低いんだよね」
あんなに素敵でモテモテの岡田真澄がそう言うのは不思議だった。
「どうしてそんなことを言うの?」
と私は訊《き》いた。
「だってさ、こういう正式のパーティーに、エスコートの口なんて、ひとつもかからないもの」
と彼は、さかんに社交的な笑いをあたりにふりまいていた私の連れのハンサムな建築家をじろりと一瞥《いちべつ》した。
「事実、あなただってやっぱりカッコのいい職業を選んでいるじゃないか」
と柄にもなく、彼はひがんでみせた。
そんなことがあったので、私は別の機会に、岡田さんではなかったがある有名な男優に、エスコートをしてもらったことがある。そうしたら、周囲の人々の視線の冷ややかだったこと。建築家だとよくて、俳優だとなぜいけないのか。岡田さんの気持ちが少しわかるような気がした。
日本の社交界というのは、そういうものがあるとすればだが、排他的なのである。非常に保守的で、結束が固い。
しかし排他的なハイソサイアティというものは、風通しがわるいから、むれて、退廃的な様相を帯びてくるものだ。
もう少し、遊びやユーモアのセンスがあってもいいと思う。人間関係のゲームがあってもいいと思う。スキャンダラスであってもいいではないか。どうせ一夜の遊びなのだ。
ほんとうにスキャンダルをひき起こすのはスマートではないが、スキャンダルめいているというのが、私は好きだ。
ブラック・タイのパーティーというのは着飾って、フルコースのフランス料理を左右の見知らぬ人々とにこやかに会話をかわしながら食べるものだ、という概念程度のものでしか、今のところないわけだ。はれがましいけど、ほとんど苦痛の世界だ。ありきたりの毒にも薬にもならない会話をかわしつつ、美味《おい》しいとはお世辞にも言えない、しかし高い料理を三時間もかけて延々と食べるというのは、拷問に近いと私は思っている。
この拷問に耐えるには、誰《だれ》かがスキャンダラスに振るまってくれなければ。日本のパーティー風景に決定的に欠けるのは、このスキャンダルの匂《にお》いである。