着こなし次第で幾通りにも着られるドレス、というのが、私が服を選ぶ時の一番の基準である。
雑誌のグラビア頁《ページ》に出るだけではなく、オペラや観劇、音楽会の類にもちょくちょく出かけるので、
「あら、あのドレス、前の時と同じだわ」
と、大きな声で言われては困るのだ。
というわけで、一着で完成しているような、カチッとしたスーツや、飾りの多いワンピースはどうしても敬遠してしまう。
いつだったか原宿のコシノヒロコの店で、バーゲンセールがあり、友人と連れだって飛んで行った。この友人も私も背が高い方で、とりわけ腕が長すぎるという欠点を二人とももっている。従って普通のドレスが着られない。
コシノヒロコのバーゲンセールの一隅には必ず、モデルがショーの時に着たドレスがズラリと並んでいるはずである。それを狙《ねら》って飛んで行くのである。
遠くから見る分には、モデルはやけにほっそりと見えるが、実際には自分の躰《からだ》にあててみると肩幅もヒップもかなり大きい。とりわけ着丈が余っておつりがくるくらい。
そういう中で、普段はとても出来ないような冒険的ドレスを買いあさる。
たとえば片方の前|裾《すそ》だけが一メートルも下がっているトルコブルーの上着。このぶら下った一メートルの着こなし次第で、二、三通りに着れそうだ。
あるいは肩パットが入っただけのストーンとした長い長いロングドレス。ドレスの裾《すそ》を肩にもって来て止めれば普通の丈に、ウエストに止めればちょっとセクシーなロングにもなる。止めたところに飾るアクセサリー次第でドレスの感じもガラリと変わる。そしてドレス自身の色はなんともとりとめのないえび茶色を帯びたグレーという不思議な色。このドレスはすごく大活躍。大変に重宝した。一度や二度着て現れても、なかなか色彩が記憶に残らないという点が得なのだ。これから秋口にむかっては、裾を背中の方に大きくねじって、後ろからフードのようにかぶるという着方も面白そうだ。
もっと重宝しているのが、厚地ピケの礼服のジャケット。色は黒。衿《えり》は光るサテン。前裾がアシンメトリーで、背丈はやや短い。
このジャケットは四年前に買ったのだが、ほんとうに度々利用している。下に何を着ても、実に不思議にどれもきまるのだ。ジーンズをはけば、町着のジーンズがパーティー用に変身してしまう。あるいはビーズをちりばめたロマンティックなドレスに重ねると、そのけばけばしさをおさえてくれるという効果もある。前ボタンを閉めるのと、開いて着るのとでは、ガラリと印象が違うのも、うれしい。あげていくときりがない。
コシノヒロコの服は、もしかしたら服そのもので完成してしまってはいないのかもしれない。着る人に着こなされて初めて、ドレスとして完成するのではないだろうか。
私はそういう服が好きである。そういう服だけが好きなのだと言っても良い。着る側にある種の緊張感を強いる服でないと、着ていて退屈してしまうのだ。
どこかにとてつもない遊びがあって、その遊び方はあなた次第というふう——。こちら側の遊び方にセンスがないとちょっと困る。つまり、デザイナーが着る側に無言の挑戦をしてくる服。だったら受けて立ちましょうと、私なんて、大いにチャレンジ精神を刺激されて、エキサイトしてしまう。
もうひとつ、うれしいことには、彼女のドレスは着てみると、なぜか少し余分に痩《や》せて見えることだ。どうしてなのか、あまりよくはわからない。思うに、肩パットの程良い大きさと厚みのせいもあるだろう。それから彼女独特の胸のくり方。ちょうど鎖骨《さこつ》がきれいに浮き出る線で、丸くカーブしている。この首のくり方とか加減が、他の日本人のデザイナーより少しだけ深いのだ。その点をとても気に入っている。
デザイナーという人たちは、ほとんどが自分が着たいものをデザインするというが、多分ヒロコさんもその一人なのだろうと思う。ただ、ヒロコさんの場合、自分しか似合わないような狭さはない。自分というものを、ちゃんと中心に見据えた上で、大きく冒険をしている。冒険といってもいいし、危険をおかしていると言ってもいい。私はこの危険をおかすという部分に魅《ひ》かれるのである。だから彼女のドレスに袖《そで》を通す時必ず、冒険者の共犯があるような気がするのだ。