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ある日、ある午後19

时间: 2020-03-31    进入日语论坛
核心提示:あの甘やかな匂《にお》いが微《かす》かにする坂道三十代の前半のほとんどを、西麻布《にしあざぶ》で過ごした。それまで住んで
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あの甘やかな匂《にお》いが微《かす》かにする坂道

三十代の前半のほとんどを、西麻布《にしあざぶ》で過ごした。それまで住んでいたのは、三浦三崎の突端にある海辺の家だったので、環境は激変した。
とにかく、夜がいつまでたっても明るいのである。窓を閉め、カーテンを閉じても、寝室の中には暁の仄白《ほのじろ》さによく似た、青味を帯びた薄明りが漂っていた。
海辺にいた頃には、太陽が沈んでしまうと夜がすぐに訪れた。月のない時には、それこそ漆黒の闇《やみ》であった。懐中電気なしではどこも歩けなかった。従って寝室の中の灯《あか》りを消すと、もう鼻をつままれてもわからない真暗闇となり、安眠が出来た。
西麻布の夜は、だから中々寝つかれず、ベッドの上を転々としてばかりいた。カーテンをどう工夫しても、都心の夜の放つ蒼白《あおじろ》い光りをさえぎることは出来なかった。
私たちが住んでいたのは、麻布十番へと抜ける坂道の途中にある一軒家だった。曲がりくねった石畳が、まるでパリのモンマルトルあたりのようで、風情《ふぜい》はあったが、よくヒールのカカトを取られたり、傷つけたりして苦労した。
なぜか坂道に縁があり、三崎の家も丘の中腹にあるし、私の下北沢の実家も、かなり急な坂に位置している。
真夏の登りは、いつも汗だくになった。上にすっかり着く頃には肩で息をしていた。坂道を登る時の調子で、その日の健康状態がなんとなくわかるのだった。
西麻布時代、私たち夫婦はよく喧嘩《けんか》をして、たいてい私が言い負かされ、口惜《くや》しさで家を飛び出すということがよくあった。そんな時、坂の途中で一瞬思案したものだった。登りにするか下りにするか。
下り坂を駆《か》け下りる方がもちろん楽である。けれども、喧嘩が深刻であり、腹立ちが激しいほど、私はなぜか無意識に登り坂を駆け上って行ったような気がする。そうやってエネルギーを使い切ることによって、むしゃくしゃを解放していたのかもしれない。
西麻布の坂と東京タワーは切っても切れない関係にあった。坂の途中のある地点まで来ると、突然タワーがそそり立つように見えるのだ。夏の宵の口には、黄昏刻《たそがれどき》特有の青白さが漂い、その中で、次第に輝きを増していくタワーの明りを、あきずに眺めたりした。
冬のタワーは、もっと美しかった。冬の方が空気に透明感があるためか、イルミネーションが輝き、タワー自体が着飾った女のように見えるのだった。
西麻布から現在の下北沢に越して、またたくまに十年という歳月が過ぎてしまった。当時の家賃が確か十三万円くらいだった。それが現在では六十万円に近いという。
しかし家賃以外の点では、あの坂道は昔のままだ。時々混雑を迂回《うかい》するためにタクシーで通りかかったりすると、私は息をつめて、通りをじっと見る。寒くても窓を開いて匂《にお》いを嗅《か》ぐ。埃《ほこり》とガソリンと樹木と金木犀《きんもくせい》の香りがする。金木犀の季節でなくとも、あの甘やかな匂いが微《かす》かにするのだ。
そしてタクシーはあっという間に坂の下に着いてしまい、十番の雑踏を抜けていく。
坂道には特別の風情《ふぜい》と、独得の匂いがある。そこにだけしかないような気配というか、たたずまいというか。
時々、私は二度とこの坂を自分の足で歩くことはないのかもしれない、などと考える。混雑迂回でタクシーが偶然に通りかかる以外に、通ることはなくなってしまったからである。
娘たちと一緒だったりすると、彼女たちは車の中で眼を見張って、こう叫ぶ。
「あら、ほんとうはずいぶん狭い道だったのね」
まだヨチヨチ歩きだった頃の彼女たちの眼には、広々とした坂道に映ったからだろう。
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