楽譜が読めないのに、ギターをとり上げるとサラリと奏《ひ》いてしまう人がいる。私は心底びっくりしてしまう。
カラオケバーとまではいかなくとも、ピアノが置いてあるような所で、興が乗ると唄いだす人がいる。歌詞だけ書いてある紙切れを手にしてである。この場合も、私はほんとうに感心してしまう。
譜面なしに音楽がやれるということが、私には驚異なのだ。私にとって音楽というのはイコールオタマジャクシのことで、楽譜がないとニッチもサッチもいかなかった。ずっと子供の頃からヴァイオリンを習っていたので、暗譜することは出来ても、それは百回近く譜面づらをさらったから出来ることであった。
友だちと気軽にピアノの置いてあるバーなどへ行くと、だから困惑することばかりだ。お酒のいきおいもあって、みんなが次々と立って唄う。人前で唄うなんてことはとうてい出来ない私は、その度胸にまず度肝をぬかれるし、普段練習しているとも思えないのに、結構、節やヒネリや唄い上げるところなども上手《うま》いのである。
「あなたの番よ。気取ってないで今夜こそ唄いなさいよ」と友だちが背中を押す。気取っているわけではない。「レパートリーがないのよ」と尻ごみすると、歌詞を書いた紙切れをくれる。「だめよ。譜面がなくちゃ、何が何だかわからない」。友だちがピアニストにむかって訊《き》く。「○○○の譜面ある?」、ピアニストは譜面なしの即興だ。「ないですねぇ」と声がかえってくる。「ないって」と友だち。「じゃだめだわ」、ほっとする私。
だけど時々、譜面の用意があったらどうしようと怯《おび》えるのだ。譜面が読めてもその通り声が出るかは、また別の問題だからだ。今のところ、そういう危機におち入ったことはないが、いつ危機に出逢《であ》わないともかぎらない。ピアノバーを極力敬遠するのは、そのせいだ。