ずっと長いこと、私がヴァイオリンで身をたてられなかったのは、人間に興味がありすぎたせいだとなぜか信じていた。
演奏家は、きわめてストイックな人種でなければつとまらないのではないかと、盲信して疑わなかった。
事実、芸大の頃私の友だちはみんなわきめもふらず音楽一筋、行き帰りの電車の中でも楽譜を広げていたような人たちだった。私みたいに文庫本をむさぼり読んでいるような人間は、もうそれだけで駄目なのだった。
私は人間が気になって仕方がなかった。人が私をどう思うか、認めてくれているのか、どうか。人から愛されたかった。切実に愛されたかった。
せまい防音壁に囲まれた芸大の練習室に、何時間も閉じこもっている間に、外でどんなことが起こっているのか、いてもたってもいられないのだった。だからすぐに練習室から飛びだしてしまうというしまつ。それは自分自身を音楽世界からしめだしてしまうことになり、私はヴァイオリンに見放された。友だちからも、先生からも、大学からも、そして両親からも見放されてしまった。
あれほど、人々に愛され、認められたいという思いにつきまとわれながら、結果的には音楽も、人間関係も、私は完全に失ってしまったのだ。
それは根を切られた海草のようなもので、私は人生という海を、海流にほんろうされながら、右に左にただ揺れ動いているだけだった。
ただ揺れ動いているだけでも、生きていくことは出来た。ただ揺れ動きながら十年以上の年月が過ぎ去った。
その間、音楽にだけは、一切近づかなかった。音楽会にも足を運ばなかった。
人間に対してひたすら興味のあった私は、なるべくして作家となった。小説という手段によって、私自身のアイデンティティを全的に救えると思ったからであった。私は言葉をたくさん発見して、ようやく表現手段を得たのだった。そして更に十年が過ぎた。そしてわかったのは、小説で書くということは、およそ徹底してストイックな作業であるということである。私はストイックな人間であったのだ。今更のようにこの認識に愕然《がくぜん》としている。
物を書くということは、発散でもなければ、情熱の吐露でもない。解放でさえもない。それは抑圧の連続であり、ストレスはたまる一方である。できるだけたくさんの言葉を吐きだす作業ではなく、むしろどれだけ少しの言葉で物を表現するかということである。
砂漠で水を求めるように、再び私には音楽が必要になった。魂の休息を求めて、レコードを聴き、ラジオをつけて、音楽会へも通いだした。そして私は気がついたのだ。演奏家はストイックではありえないと。音楽というのは官能の歓《よろこ》びなのである。
あれほどの官能の歓びをあますことなく表現しえる演奏家は、実は官能的な精神の持ち主なのだ、と。
結局、私が音楽をやらなかったのは正解だったわけだ。
ラロのスペイン交響曲というのがある。学生の時、これを勉強していて、担任の教官にこう言われた。
「あなたみたいに素朴なラロを奏くひと、初めてだわ」私の先生は女性だった。
私はその時、先生の言外の皮肉に気づいてはいたが、むしろその言葉を内心喜んでいたのだ。つまり素朴であるということはストイックであるということに通じると思ったからだった。
とんでもない誤解であった。素朴だという意味は、貧しいという意味であった。ラロをつつましく貧しく奏《ひ》いたということであった。
でも私は、とうていあの曲を、楽譜通りに演奏することなど、気恥かしくて出来なかった。情熱的に歌いあげ、音色をふるわせることは、出来なかった。