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ある日、ある午後73

时间: 2020-04-01    进入日语论坛
核心提示:背中合わせのふたつの女危険な情事マイケル・ダグラスとエイドリアン・ライン。この組合わせが、まず何よりも期待感をかきたてる
(单词翻译:双击或拖选)
背中合わせのふたつの女——危険な情事

マイケル・ダグラスとエイドリアン・ライン。この組合わせが、まず何よりも期待感をかきたてる。
マイケルといえば、あの偉大な大根役者カーク・ダグラスの息子で、親の七光りに溺《おぼ》れず、『チャイナ・シンドローム』『カッコーの巣の上で』『ウォール街』といった問題作をプロデュースしたり、主演したり。ミッキー・ロークと並んで今一番輝いている男だ。
一方、エイドリアン・ラインは『フォクシー・レディ』『フラッシュ・ダンス』そして『ナイン・ハーフ』の監督。すでに『ナイン・ハーフ』の中にも片鱗《へんりん》が見られたが、性における異常さ、ある種の兇暴《きようぼう》さ、みたいなものが、この『危険な情事』で、見事に描き切れている。
ご存知のように、日本でも公開されると劇場は連日満員で、予約席も買えないしまつ。大変なヒットとブームを巻き起こした。私自身も苦労して何とか劇場で観《み》たが、実に面白かった。どう面白かったかといえば、『危険な情事』をサカナにして、マンガを一本、短編を三本、エッセイを四本くらい書いてしまった。おかげで原稿料もたくさん稼がせてもらったわけで、こんな映画も珍しい。
この映画を見た男たちは一人の例外なく、「あの女は異常だ」とか「あれは病気だよ」とか話した。つまり、異常者にしたて上げないことには、自分が落ち着いていられないからだ。
「あれは例外で、俺《おれ》の愛人《ガールフレンド》はもっとさばけている」と思いこみたいわけである。あんな女に日常茶飯にうろうろされたら、かなわないというのが偽らざる男の本音とみた。本音であり切実なる願望のようである。
ところが女の私たちから見ると、彼女は例外でも病気でもなく、もしかしたら誰《だれ》もが自分の中に持っている要素なのである。ただ、それが外へ出ていかないだけのこと。その証拠に、彼女が男につきまとう時に言う科白《せりふ》のどのひとつを取っても、正論なのである。その女の立場になって聞く耳をもつものには、正論に響くのである。
けれどもつきまとわれ被害者のように自分を思ってしまう男(マイケル・ダグラス)の耳には、とても正論ではない。とんでもない考えの飛躍としか聞こえない。そして、マイケル・ダグラスと立場を同じくする(あるいはその可能性のある全《すべ》ての男といってもいい)男たちにとっても、情事の相手の女の言動は、信じがたくたじたじとするものなのである。
私が面白いと思ったのは、男の側には男の正論があり、女の側には女の正論がきちんとあって、なおかつそれが絶望的に咬《か》み合わないということの、人間関係のエゴイズム、恐怖、おとしあなの部分だ。
そして、自分を、被害者の妻の立場に重ねて眺めると、あの女は恐ろしく危険で、憎らしく、怖かった。が、時々自分をあの女の立ち場に重ねて眺めると、逃げ腰の男が憎く、滑稽《こつけい》で、あさましかった。彼の妻は、妻という女の立場にあんのんとあぐらをかいているようにしか見えず、そのあんのんさにひどく腹が立った。
そんな風に、二人の女の立場を行ったり来たりしながら観《み》た映画であった。ということはつまり私たち女の中には同時に二つの顔があるということである。貞淑な可愛《かわい》い妻でありたいと思う心と、一方、娼婦《しようふ》のようにあくどくありたいと望む心と。
自分の中にある二面性をつきつけられるような気がして、ちょっと考えこんだものである。
男と女の関係の葛藤《かつとう》を描いた映画としてだけでも非常に秀《すぐ》れている上に、ロサーというか人間のもつ無気味さも充分に描かれ、久しぶりに映画の面白さを味わった。
ビデオが出たので、深夜、一人でゆっくりとまた観てみたい。そうしたらもうひとつくらい、短編が書けるかもしれない。
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