テネシー・ウィリアムズの戯曲は、読む方が圧倒的に面白い。作者がその内部に強く持っているある種の狂気が、まるでなくてはならない隠し味のように、行間に潜みこんでいるからだ。
映画や舞台が失敗といわないまでも、ある不快感をともなうのは、演じる人間が、その「狂気」を演じすぎてしまうからだと思う。テネシー・ウィリアムズの書いた登場人物のもつ「狂気」を演じることに陶酔してしまうといったらいいのか。
日本人の女優に、娼婦《しようふ》と狂気じみた女を演じさせたら、下手《へた》な女優はいないということを聞くが、これはアメリカ女優でも同じことが言えそうだ。どこか歪《ゆが》みのある人間を演じるのは、いとも簡単なことなのだ。普通の人間をごくさりげなく演じることの方が、はるかにむずかしいというわけで、『雨のニューオリンズ』のアルバ役を演じたナタリー・ウッド、自分の演技に陶酔していた。
けれども、まれにみる美しさというものは、何もかも許せてしまうもので、同じウィリアムズの『熱いトタン屋根の上の猫』の人妻役エリザベス・テイラー同様、カリスマ的魅力の域にまで達している。
相手役のロバート・レッドフォードが若々しく美しい。ただしテネシー・ウィリアムズむきの役者ではないような気がする。『熱いトタン屋根……』のポール・ニューマンのもっているような、外見はタフでありながらガラス質の神経の持ち主を演じるのは、無理。レッドフォードはクールすぎる。
そういうことは別にして、テネシー・ウィリアムズは常に役柄の中の誰《だれ》かに自分を重ねるのだが『雨の……』の場合は女主人公アルバが、作者のガラス質のもろくも繊細な神経をうけついでいる。『熱いトタン屋根……』でも、また『欲望という名の電車』でもそうだが、いずれも病的に繊細な女主人公が、ウィリアムズ自身なのだということができる。
そのように作者自身が、反対の性の中に——作者は男であり、女主人公が当然女であるという意味で——色濃く投影されている、というのが、テネシー・ウィリアムズ作品の特異性でもあり、特色である。それは作者がホモセクシャルであったということと無関係ではありえないだろう。
彼の描くところのどの女たちも、現実世界から遠く逃避している。彼女らはそういう理想の世界を頭の中に組み立てて、あたかもそれが現実であり、世間一般のことが逆に非現実であるかのように見ている。彼女たちがということは、作者テネシー・ウィリアムズが、という意味であるが……。
そういうシチュエイションに登場人物を追いこむために、ニューオリンズがしばしば使われる。逃げ場のない暑さ。啜《すす》り泣くようなブルース。あくどくて、荒々しい男や女たち。『雨のニューオリンズ』では、母親役と、母親の情夫を演じていたチャールズ・ブロンソンが、女主人公を狂気に追いやる典型的人物として登場してくる。
とりわけ、チャールズ・ブロンソン演じるところのJ・Jは好演だった。この男優は、黙っていても実に見事な演技のできる人だ。
それにしてもチャールズ・ブロンソンとは不思議な俳優で、ちっとも年を取らない。一緒に出ているロバート・レッドフォードなんて『アウト・オブ・アフリカ』(邦題——『愛と哀《かな》しみの果て』)では、完全に老人顔に変わっているのに、ブロンソンは今も昔もほとんど変わらない。
また画面を見ていて感じたのだが、ナタリー・ウッドは、古き良きハリウッド時代の最後の女優であったように思う。
あの手の顔と、あの手の声は、現在という時代にまで生き残れなかったのではないか。まさにハリウッド的作りものという感じがする。今はもっと自然体でしたたかでないと通用しないのだ。
現実に彼女はもうかなり前に、酔ったかどうかしてヨットから落ちて亡くなっている。マリリン・モンローといい、ナタリー・ウッドといい、ハリウッド的死にかたをしたわけだ。つまり最後までドラマチックに、死まで演じた——そんな気がしてならない。
テネシー・ウィリアムズ作品の特色は、肉親に対する愛と憎悪の大きな撒布《さんぷ》と、もうひとつ男と女の間にある越えられぬ溝《みぞ》の深さである。
とりわけ、血を分けた肉親への憎悪は、さすが肉食人種だと、感嘆せずにはおれないほどの迫力をもっている。強大な母親とか、あまりにも威圧的な父親が、どれだけ子供の精神を歪《ゆが》め、それが肉体的なものまでを歪めていくか、恐ろしいまでに描かれている。
肉親による徹底的な精神的迫害、あるいはその裏返しである溺愛《できあい》によって、人は破壊される。後に、別の人を愛することが出来なくなるみたいだ。精神的にも肉体的にも、ウィリアムズの主人公たちはみんな不毛な愛にのたうって苦しんでいるように見える。
今や、テネシー・ウィリアムズ作品の世界は、セピア色に褪《あ》せて来ている。それは苦悩さえもセピア色に染め、直接的に画面から私たちの胸を鷲《わし》づかみにする迫力を失った。時代が変わったのだ。ホモセクシャルが大手を振ってまかり通るようになり、家族主義から個人主義に変わって来た。従って作品世界の哀《かな》しみもまたセピア色にまで弱まった。
そんなわけで、家庭用ビデオ作品としては、かなり楽しめるのではないかと思う。なぜならテレビ画面大で見ると、あらとか誇張などが目立たなくなるからだ。そしてもっとずっと日常性の時限にまで近づけてドラマが見れるという利点もある。そういう意味でウィリアムズの他の作品も、ビデオでゆっくり観《み》てみたい気がする。