一連の赤ちゃんものの映画が流行《はや》って、これもそのひとつ。
赤ちゃんものの面白さというのは、パターンがきまっていて、およそ奇想天外なシチュエイションの中に、いきなり赤んぼうを放りこむという点が共通している。
つまり、ある日、何かの都合かあるいは何かのまちがいで、見知らぬベビーが届けられる。というところからストーリーが始まる。
届けられて驚き仰天するのは、独身の 男《プレイボーイ》 だったり、ホモの夫婦だったりするわけだ。何をどうして良いのかまるきりわからない。ひたすらオタオタするわけだ。ひとりの赤んぼうをめぐってドタバタ喜劇が展開する。
こういう映画を見ると、男ってほんとうに不器用ねぇ、と女たちは溜息《ためいき》をつく。時にはあまりの無知さかげんにイライラしてくる。赤んぼうの抱き方なんて、今にも落としそうでハラハラする。いくら映画とはいえ、男も女も同じ人間なのに、あまりにひどすぎる、などと考えるわけだ。
けれども世の中たいていの男——現実の男なんて、映画の中でオタオタしている登場人物と大差はないのである。これは私の体験を通して言うのだから信じてもらってかまわない。
私の亭主殿は、最初の赤んぼうのオムツをなぜか股《また》にあてず、下腹に腹巻のようにぐるぐると巻きつけた。赤んぼうが寝返っているうちにオムツは胸の方にまでずり上がり、ベッドがオシッコやらウンチでベトベト。
「ねぇ、常識で考えればわかるでしょうに。オシッコやウンチはどこから出てくるのよ?」
「股の間から」
「でしょう? そこにオムツをあてなけりゃ、何にもならないじゃない」
「その頃のことは覚えていなくてねぇ」
「その頃って?」
「だからボクがオムツをあててた頃のこと」
覚えていなかったら、改めて考えればいいのだ。けれども失敗は成功の母、亭主殿は以後オムツあてに関してはエキスパートとなった。ミルクにしても、最初は空気ばかり吸わせていた。
「ねぇ、この子、さっきからゲップばかりしてるけど、どこか悪いんじゃない?」
映画の中のヒーローよろしくオロオロと亭主殿が聞いた。
「多分、胃の中が空気で一杯なのよ」
「でもどうして胃に空気がたまるんだい?」
「あなたが空気ばかり吸わせるからよ」
「エ? ボクが?」
と彼はうろたえる。そこで私は空気を吸わせないで授乳するやり方を教える。ボトルの角度の問題なのだ。以後亭主殿は授乳でもかなりの腕前を披露《ひろう》するようになったのである。
前置きが長くなったのは、実は次のようなことを言いたかったからである。かのボーヴォワール女史の有名な言葉——。女は女に生まれるのではない。女に躾《しつけ》られるのである——。それをそのまま、
母性は生まれながらのものではない。母親に躾られるのである。
と言いかえることができる。
その証拠に、映画の中のプレイボーイやホモ夫婦は、やがて育児のエキスパートへと変身していくのである。
さて本題。『赤ちゃんはトップレディがお好き』は典型的赤ちゃんもののパターンをとりながら、ドタバタを演じるのが男ではなくキャリアウーマンだという点が、ちょっと違う。
ダイアン・キートン演じるところのこのバリバリのキャリア・ウーマンはエグゼクティヴ候補でもある。男顔負けのやり手。
とある日、従兄《いとこ》かなにかの遺産が転がりこむ。転がりこんで来たのは、百万ドルのお金ではなく、なんとベビーがひとり。
男顔負けのエグゼクティヴ・ウーマンは、驚いたことに男顔負けの母性欠陥人間だった。このあたりが、この映画の面白いところなのかもしれない。ここでも、女は女に生まれるのではない、女に躾られるのだを、実証しているわけだ。
しかしこの映画、女が子育てをしながら仕事をバリバリこなすのはむずかしいというそのけなげさを描こうとしたわけではない。仕事をやる上ではけなげさのかたまりであったダイアン・キートンも、赤んぼうを抱えこむやいなや、髪ふり乱しての子連れ出勤。アグネス・チャンも顔負け。
けれどもアメリカのしかもニューヨークは日本ほど大甘ではない。ダイアン・キートンはまたたくまに競争社会から落伍《らくご》してしまう。
人生には山あり谷あり、そしてまた山あり。赤んぼうでつまずいたダイアン嬢には、ひょんなことから、赤んぼうで再び世の中の脚光を浴びる運命が待ちかまえている。それはビデオを見てのお楽しみ。