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なつかしい芸人たち12

时间: 2020-04-08    进入日语论坛
核心提示:浅草有望派始末記寅《とら》さん映画の脇《わき》人物の中で、傑作だと思うのは、太宰久雄扮《だざいひさおふん》する裏の印刷屋
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浅草有望派始末記

寅《とら》さん映画の脇《わき》人物の中で、傑作だと思うのは、太宰久雄扮《だざいひさおふん》する裏の印刷屋のタコ社長である。馬力があって気がよくて、石ころのように頭が固くて、生存競争のあわいの中を息せき切って走っている。戯画化もされているが、こういう人物はあちこちにそっくりな人が居るもので、まことにおかしい。
太宰久雄という人は、ラジオの時代から「向う三軒両隣り」などの庶民ドラマに出ているが、なんだかあまり演技力を感じない人で、俳優の落第生のように私には見えた。こういう人でも役者を一生やっていけるのだろうか、とよけいな心配をさせて、それでなんとなく関心があった。しかしタコ社長は、どの程度に演じわけているのか知らないが、類型ではなくて典型を描出している。立派なものである。太宰久雄がこんなに精彩を発揮する役に当たろうとは思わなかった。今では彼は、私のノートの好ましき俳優の部に記載されている。
だから、役者はどこで花を開くかわからない。また、巧拙ということも簡単には定められない。
寅さん映画でいえば、オイちゃん役の森川信《もりかわしん》が死んで、何割か魅力がへった。あとをひきついだ俳優さんにわるいが、新劇の人ではこの役は、とおりいっぺんにしかできない。
甥《おい》の寅さんを案じながら、顔を見るとバカだねえあいつは、ばかりいっているような叔父さん役というのは、軽演劇ではパターン化しているような役だが、かといって年季というばかりではない。あの味というものは、演技の鍛練ばかりでは出てこないものだ。
舞台演技は約束事がたくさんあって、年季で積み重ねていくところが多いのだろうが、映画は個性の勝負になるようで存外に軽演劇出身の人が、シリアスな役でもいい味を出す。藤原釜足《ふじわらかまたり》や中村是好、左卜全、当今でいうと財津一郎《ざいついちろう》、芦屋雁之助《あしやがんのすけ》、こういった人たちは新劇からは出てこない。
私が軽演劇を見はじめたころ、すなわち昭和十四、五年ごろ、先輩の話では天才的な若い役者が三人居るということだった。曰《いわ》く、森川信、岸田一夫、有島一郎。
ところがこの当時、森川と岸田は大阪の黒川志津也という人がはじめた弥生《やよい》座のピエルボーイズという劇団に居《お》り、むろん東京では見られなかった。有島一郎もこの時期は、ムーランルージュから新興演芸に引き抜かれて関西に行っていたはずだ。
ピエルボーイズの黒川という人はどんな人か知らないが、森川、岸田に、清水金一、田中実(田崎潤)と浅草の若手有望どころをごっそり連れていった眼力はすごい。おそらく文芸部長|淀橋《よどばし》太郎の眼力だろうが。
清水金一や田中実はまもなく浅草に帰ってきて、笑の王国、オペラ館、東宝映画、新生喜劇座と進んで行く。それで大阪のピエルボーイズは、森川と岸田が二人座長で数年やっていた。このレビュー団は脇に弓矢|八幡《はちまん》やサトーイチローなんかも居て、今日でも見たかった劇団の一つなのだが、森川も岸田も、踊れてスマートでアチャラカもできて、いい競争相手だった。
当時のレビュー俳優は、歌と踊りと芝居、この三つはぜひともマスターしろ、といわれたころだ。だから森川信(巧《うま》くはないが)も歌う。
「踊りをやっとくとね、舞台姿が綺麗《きれい》になるんだよ。動きもよくなるしね。人に見て貰《もら》う商売はね、基本は踊りだよ」
と浅草時代にいっていたのを思い出す。
弥生座がニュース映画館に転向してピエルボーイズは解散。それから名古屋の名劇、博多《はかた》の川丈座、北支の慰問団と流れ歩いて、新興演芸部で小一座を作り、それが松竹に買われて国際劇場のアトラクションに上京。浅草に定着する。
私は国際劇場ではじめて森川信を見たが、噂《うわさ》にたがわずうまい役者だった。軽演劇には珍しくアクが強くない。引く芝居を心得ている。当時の浅草のNo.1は清水金一で、これは典型的なアチャラカ役者。それに対して森川信はシリアスな芝居もできる。
「高千穂の子供たち」という情報局推薦の国策芝居を、同じ月に、前進座と競って演《や》った。長十郎や翫《がん》右衛門《えもん》が盛りだったころの前進座である。ところが浅草の森川信のほうがどの新聞の劇評でも評判がよかった。
浅草出の役者というものは、どこか、世間からはずれた趣を持っていて、そこが個性になったりするのだが、森川信は、すくなくとも舞台の森川信は、見事なほど柔軟で、インサイドな役者だった。だから国策芝居を演っても客の胸を打つことができるし、戦後、「蟹工船《かにこうせん》」のような映画に出ても鋭い芝居をする。役者にならなくたって、どの世界でもある程度の成功をおさめたのではないか。それが、とりもなおさず役者というものなのかなア、と私は思ったものだ。
しかし、そういう利口そうなところが陰な感じにもなって、明るさでは清水金一に及ばなかった。
もっとも、全役者の中でも、森川信くらい女にモテた人は居ないという。
博多の川丈座に居たころ、玉屋というデパートの女店員を、片っ端から抱いた。夜毎《よごと》夜毎、三人ぐらいは抱いていた。
「役者が女をつまむのは当たり前だ。遊廓《ゆうかく》なんぞへ行くのはモテない役者さ。俺《おれ》は女を買いになんか行かない。女に買わせるんだ」
そう豪語していた。もっとも、博多ではやりすぎて、娘が五人くらい同時に懐妊してしまい、あわてて逃げた。森川が北支慰問団に加わったのはそのためだという説がある。
しかし、彼が女にモテるというのは、実によくわかる。なにしろどんなときでもインサイドになってしまう男だから、誰にでも、その場は、心をこめてつくしただろう。あの森川信が心をこめたらどんな女でもまいるのではないか。
当時の松竹スターの水戸光子が、浅草で、森川信一座に特別出演した一カ月のうちに、ぞっこんまいってしまって、結婚ということになった。
水戸光子は当時「暖流」などで人気上昇中で、松竹の箱入娘的スターだった。
あの水戸光子が、なぜ、浅草の喜劇役者なんかに——、と世間はいった。まるで人さらいにさらわれたようないわれ方をした。
その結婚生活が、半年ほどしか続かなかった。森川信は、魅力充分だったが、暮す男ではなかったのだろう。インサイドといっても、このへんが浅草の人である。
森川信の好ライバルだった岸田一夫は新興演芸のころに袂《たもと》をわかち、岸田の出征もあって、後年はすっかり差ができてしまった。岸田も二枚目で芝居も巧く、アチャラカもできたし、なかなかモダンだったのだが、戦後は関西のほうで脇役に終始した。幕内の人にきくと、女癖がわるかった、という。森川信には女のほうから寄ってくるのに、岸田一夫は自分のほうから女に手を出した。その差なのか。
「岸田は自分の座長芝居ができない。誰かが居てその相手役だと実にいいんだがね。自分がシンになると、なんだか頼りなくて、陰なんだ」
淀橋太郎さんはそういっている。コメディアンというものも大成するにはむずかしい条件があるようだ。
有島一郎は、やっぱり巧かったけれども、森川信のように自在型ではなくて、鋭かった。特に若いころの有島一郎は、ツボにはまると前衛的な冴《さ》えが出てしまうほどだった。彼のスラップスティックは天下一品で、戦後の八波《はつぱ》むと志《し》や三木のり平も、有島一郎が居なければ洗練されなかったろう。
ところが老《ふ》けもできるし、立役もできる。脇でアンサンブルを整えることもちゃんとやる。唄《うた》も(感心しないが)歌える。いろんなことが器用にやれるので、かえって印象が散漫になる。森繁久弥《もりしげひさや》が成功したので、一家をなしてからの有島一郎は家庭向き健全路線を狙《ねら》った。もう一つは、小心な中老年の小市民的な戯画化。それでスターとしての位置を保っているからいいようなものの、私としては若いころの一瞬の狂ったような精気に深入りしてほしかった。そうするとポピュラーでなくなるおそれもあり、ご当人も望むまいが、永田キングを上廻《うわまわ》って、バスター・キートンに迫る存在になっていたかもしれない。
こうして長いこと眺《なが》めていると、タレントの興亡もなかなかドラマティックである。一番華やかで、明るかった清水金一が、若さを失うとともに、早く失墜した。岸田一夫はヒネリ球を投げすぎて、肩をこわした投手のごとくなった。
持ち味が小さくていかず、大きすぎても持続がむずかしい。
有島一郎は前の二人よりはるかに思索的で、自分のいろいろな才能をたしかめながら、一歩一歩、地位をふみかためて上昇してきた。酷ないいかたをすれば、役者としての花は後半うすれてきて、惰性のようになったが、軽演劇出身の人の中では数少ない成功者だろう。
私は有島一郎という役者が好きだった。軽演劇がストリップに喰《く》われて潰滅《かいめつ》状態になったときをはさんで、ほぼ五十年、彼の牛歩のような上昇を、他人事《ひとごと》でなく眺めてきた。低迷時代、国際劇場のショーの司会をやったり、池袋文化の三木トリローのショーに参加したり、その一つ一つを熱いまなざしで見ていた少年が居たことをご当人はご存じないだろう。あのころは新聞広告に、有馬一郎とまちがって書かれることが再々で、私も口惜《くや》しい思いをしたものだ。
一番中庸を行った森川信が脱落しなかったのは当然だが、それ以上に晩年は球が伸びていたかもしれない。彼が死んだのは昭和四十七年で、もうひと昔前になるが、印象がまだ古びない。肝硬変による動脈破裂。遊び人によくある死病だった。
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