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なつかしい芸人たち13

时间: 2020-04-08    进入日语论坛
核心提示:いい顔、佐分利信《さぶりしん》映画の中の佐分利信を眺《なが》めていると、あの風貌《ふうぼう》が、どこで、どうやって、作ら
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いい顔、佐分利信《さぶりしん》

映画の中の佐分利信を眺《なが》めていると、あの風貌《ふうぼう》が、どこで、どうやって、作られてきたのだろう、といつも思う。私にはそれがとても興味がある。
佐分利信の父は明治中ごろに北陸から移住、北海道夕張炭田の歌志内《うたしない》鉱山で働く炭坑夫だった。それで九人兄弟という大家族。炭坑夫だからどうというわけではけっしてないが、まァ楽な暮しではなかったろう。彼自身も中学教師を夢みて上京し、苦学生として水道工事や道路工事の人夫になった。
学校を続けられなくて帰郷、また出奔をくりかえし、なかば捨鉢《すてばち》に活動屋にでもなろうと、日本映画俳優学校に入り、一年半で卒業して、この学校の先輩小杉勇を頼り日活に入る。最初の芸名は島津元。
ただ喰《く》うためで、まったく情熱的でないスタートだった、というが、ボソッとカメラの前に立つだけで、演技もなにもない存在だったらしい。しかしその芝居臭くない動きが、かえって映画のリアリズムに合った。だからそのころからガツガツしていなかったらしい。
どうも私などは、焼跡餓鬼道世代で、今もって喰い物にガツガツしているし、汚れた顔をしていても平気なところがある。人間の顔というものは、その人の半生の内面外面が積み重なって作られてくるように思うのだが、佐分利信の経歴の外面からは、おっとりと知的なものが育つようには思えない。
「どうしてああいう顔ができたんだろうねえ」
という話をしていたら、小沢昭一がこういったことがある。
「佐分利さんが破顔一笑するとね、おかしいんですよ。歯ぐきが大きく見えちゃって、佐分利でも信でもない、その辺の横丁にいくらでもあるただの笑顔になっちゃう」
そういえば、フフン、と笑うくらいで若いころから破顔一笑しないスターでもあった。
人気が出はじめたのは日活から松竹に移って以後で、当時の松竹の大監督島津保次郎に、
「俺《おれ》とおんなじ苗字《みようじ》じゃまずい。名前を変えろよ」
といわれて島津元から佐分利信に。本名は石崎由雄だけれど、彼の考えた芸名のほうがイメージに合っている。つまり、自分がそうなろうと思った顔に、じわじわとなっていったわけで、内面や見えないところでの努力もあったのだろう。もっとも、《人間は結局、自分がもっともなりたいと思ったものになっていくのである》、といった西欧の識者も居る。
昭和十年代の松竹大船はスター女優の宝庫といわれたが、男優陣も、上原謙、佐野周二、佐分利信と揃《そろ》っていて、この三人は松竹三羽|烏《がらす》といわれた。
美男スターの上原謙、庶民的で明るい佐野周二、男っぽくて重厚な佐分利信という持駒《もちごま》なら、どんなメロドラマだって作れる。「婚約三羽烏」という映画では、上原が山手《やまのて》出身、佐野が下町出身、佐分利が地方出身の青年になって、うまく描きわけられていた。
当時の島津保次郎という監督のセンスはなかなか洗練されていて、たとえば、「隣りの八重ちゃん」などという作品を今|観《み》ても、さほど古びていない。元来、松竹現代劇はハリウッド製映画を範としていて、島津ばかりでなく、五所平之助《ごしよへいのすけ》も小津安二郎《おづやすじろう》も、さかんにその手法をとりいれていた。それもこの三人が拮抗《きつこう》して存在していたればこそ、だったろう。つまり、ロバート・テーラーとケーリー・グラントとゲイリー・クーパーが揃っていたのだ。
しかし、今、「暖流」とか「愛染《あいぜん》かつら」とか、「家族会議」など観てみると、役者臭くない新鮮さと同時に、それがまだ一つの型になっていない破調も感じられる。やはりこの人は、自分の思う方角をじわじわとゆるやかに歩いて完成に近づいていった人らしく、後年になればなるほど充実してくる。役者というものは職業上、試行錯誤があったり拙《まず》い使われ方をしたりで、たいがいはうわついた足跡があるものだが、この人は、歩みはのろいが一筋道だった。
まァそれは役者として器用でなかったことも幸いしているだろう。
戦争中に、輸入フィルムが杜絶《とぜつ》して、製作本数が減り、手の空いた俳優たちが映画館のアトラクションだとか実演に駆りだされたことがある。
佐分利信も、浅草|常盤座《ときわざ》に出演した。たぶん、舞台はこれがはじめてだったのではなかろうか。マイクに助けられている映画で慣れているから、そのうえ呟《つぶや》くような演技なので、声が小さくてとても客席に通らない。
当時、臨官席というものがあって、一番うしろに、官憲の人が居《お》り、台本どおりセリフをしゃべっているかどうか調べに来ている。
ところが佐分利信の声が小さいから、何をしゃべっているのか臨官席にもひとつもきこえない。
「これじゃァ駄目《だめ》だ。もっと大声でしゃべらせろ」
演出家が叱《しか》られる。
「もう少し大きな声でお願いします」
といって、佐分利もそのつもりで声を張るのだが、まだ臨官席に届かない。
演出家は弱っちゃって、一計を案じ、舞台装置の囲炉裏の中に、こっそりマイクを隠した。佐分利がその囲炉裏にあたりながらセリフをしゃべる。
今度は場内くまなく声が通った。
ところが二、三日すると、佐分利がそのマイクをみつけて、
「あ、マイクがあるんですか。じゃ、普通の声で大丈夫だ」
それでまた全然セリフがきこえなくなっちゃった。
戦争中の諸事体制的な中で、マイペースの佐分利のような役者は存立がなかなかむずかしかっただろう。実際、この時期に統合やなにかで半分以上の映画俳優が職場を離れているのである。
この間、小津安二郎の「戸田家の兄妹《きようだい》」だとか獅子文六《ししぶんろく》原作の「南の風」、島津保次郎の「日常の闘い」、「間諜|未《いま》だ死せず」「愛機南へ飛ぶ」など、けっこう出演作が多い。それに国民服や軍服というものがわりによく似合う。もともとニヤけていないから、戦時カラーの中でも大学教授とか高級将校になってうまく映えた。
たった一本、「天狗《てんぐ》倒し」という時代劇で鞍馬《くらま》天狗に扮《ふん》している。これは私は観ていないが、知人の話によるとまさに珍品で、あんなに鈍重でセリフのききとりにくい鞍馬天狗はなかったそうだ。
もっとも本家の|嵐寛寿郎が《あらしかんじゆうろう》演じても、セリフのツブはたっていない。
近ごろ、話に出て大笑いしたのだが、だいたい、鞍馬天狗という映画、どれもこれもおもしろくもなんともない話で、なぜあんなに受けたのだろうか。続篇を作る関係上|巨魁《きよかい》同士はなかなかぶつからず、駈《か》けつけると敵は去ったあと、色気があるわけじゃなし、正義のヒーローには珍しく飛道具の拳銃《けんじゆう》を使ったりする。わずかに角兵衛獅子《かくべえじし》兄弟との情愛が味つけという程度。しかし観客はあらかじめ宗教的エクスタシーのようなものにおちいっていて、天狗が馬で駈けつけていくのをただもうわくわくと拍手していた。ほかならぬ私自身も大拍手をしていたわけで、思い出すと苦笑がこみあげてくる。
まァ今となると、佐分利信の鞍馬天狗は、ちょっと観てみたいような気がする。
戦後の彼は、松竹を離れると同時に、監督兼業を宣言した。もともと監督志望だったらしい。
役者から監督になるケースは成功例がすくないが、「女性対男性」「執行|猶予《ゆうよ》」「あゝ青春」「風雪二十年」「慟哭《どうこく》」「人生劇場第一部」「広場の孤独」「叛乱《はんらん》」「心に花の咲く日まで」「愛情の決算」「悪徳」それに途中|挫折《ざせつ》した「オレンジ運河」という作歴を並べてみると、題名を眺めただけで、かなりの水準が保たれているのがわかる。
この時期、私は映画館を遠ざかっていたので、そのほとんどを観ていないのだけれども、監督と並行して役者業もこの時期から一段と光彩が加わり、大監督の作品にひっぱりだこになっている。
小津安二郎は「戸田家の兄妹」以来ごひいきで「お茶漬《ちやづけ》の味」「秋|日和《びより》」「彼岸花」、五所平之助の「わが愛」「白い牙《きば》」、渋谷|実《みのる》の「自由学校」、熊井啓《くまいけい》の「朝やけの詩《うた》」、山本|薩夫《さつお》の「華麗なる一族」、小林|正樹《まさき》の「化石」など。
映画から遠ざかっていても、新聞広告やポスターのキャスト順位などで、ますます貴重な存在になっている感じはわかる。
不思議なもので、美男だった上原謙や佐野周二、あるいは池部良などが、中年以後、それぞれに苦闘気味なのに対し、佐分利信はずっと地顔で晩年まで楽々と来たように思える。
それで年齢を加えるにつれて、顔ができてきた。あの顔なら、画面に出ているだけで恰好《かつこう》になる、という顔だ。
ときどき、映画界にはそういう顔つきがまぎれこんでくる。
たとえば三国連太郎《みくにれんたろう》なんてのもそうだ。ごく若い一時期をのぞいて特別苦労したわけでもなさそうだし、一途《いちず》に何かに深入りしたというわけでもなさそうだのに。
実際、顔というものは不思議なものでどうやって深みが作られていくのだろうか。
外国映画を観ていても、実業界の長老とか、なんとか将軍とか、本当にどうしてあれだけの顔、あれだけの風格をもっていて、本物じゃないんだろう、と思わせるような仕出しが居る。それで案外、実生活では怠け者の呑《の》んだくれだったりするのかもしれない。
佐分利信のあの顔がどうしてできあがったか不思議だが、やっぱり日々の内心のありよう、というほかはないのかもしれない。
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