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なつかしい芸人たち11

时间: 2020-04-08    进入日语论坛
核心提示:敗戦直後のニューフェイスたまには女優さんをとりあげてみたいと思ったが、どうもこれといった存在が思いつかない。たぶん、私が
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敗戦直後のニューフェイス

たまには女優さんをとりあげてみたいと思ったが、どうもこれといった存在が思いつかない。たぶん、私が一番映画を見ていた子供時代に、女優中心のメロドラマにあまり心を動かされなかったからであろう。
で、一策を案じて、廃墟《はいきよ》だった敗戦のころに、どんな女優が育ったか、古いキネマ旬報をひっくりかえして眺《なが》めてみた。今もなお美しさが心に残るような女優はきわめてすくない。当たり前のことかもしれないが、当時は女優志願どころの騒ぎではなかったのだろう。
だいたい、既成の女優さんが、戦争末期には疎開《そかい》その他で手近なところに居なかった。そのことは戦争末期から製作開始して、敗戦直後に封切した、いわゆる敗戦またぎの映画に、女優らしい女優が出ていないことを見てもわかる。
東宝の「東京五人男」はエンタツ、アチャコ、ロッパなど男優はにぎやかだが、女優は軽い役で飯田ふさ江が出ているのみ。この人は東宝系の舞台に出ていた人で唄《うた》も歌い、楚々《そそ》たる美人だったが。
松竹の「そよかぜ」は二人の新人女優を起用している。といっても二人とも松竹歌劇団出身の先輩と後輩、一人は主題歌「リンゴの唄」がヒットしたため売り出して今日まだ健在の並木路子《なみきみちこ》だ。歌劇団に居たころは瞳《ひとみ》のきれいな少女っぽい子で、私も遠くから憧《あこが》れたものだ。
もう一人の先輩のほうは波多美喜子といって、ヤンチャガールズで売ったり、笑の王国など浅草ではおなじみの人だったが、年齢的にトウがたっていたこともあって、並木路子の陰にかすんでしまう。軽演劇の衰退もあって、歌謡スター並木路子との差は開くばかりだった。私はずっと彼女のその後に感情移入していたが先年|淋《さび》しく亡《な》くなったと聞く。
松竹は歌劇団という畑があるので、女優の卵には困らない。もう二人、幾野道子、空あけみ、現役の踊り子を引抜いて軽喜劇ふうの短篇映画に試験的に使いはじめた。二人とも特に個性の強いほうではなく、便利に使われて甲乙つけがたかったが、その翌年、幾野道子のほうは「はたちの青春」で(たしか)大坂志郎とキスシーンを演じ、これが最初の接吻《せつぷん》映画だと騒がれた。ゴシップ記事で読んだ知識では、二人とも口にガーゼを含んで撮った由《よし》。今日の若い人たちはこんなこと嘘《うそ》だと思うだろう。
私の中学の級友に空あけみと従弟《いとこ》というのが居て、
「今度、従姉《いとこ》が映画に出るんだぞ」
と威張られた記憶がある。接吻女優の肩書のせいか、幾野道子のほうがいくらか息が長かったか。
もう一人、この時期に「女生徒と教師」という映画に山中一子という新人が、増田順二と共演しているが、映画を見てないし、この一本で消えたようで、まったく印象がない。
大映では阪東妻三郎が自由主義の政治家に扮《ふん》した「犯罪者は誰か」で、鈴木美智子を出している。そのあとが「彼と彼女は行く」の折原啓子《おりはらけいこ》だ。
鈴木美智子は、たしか築地《つきじ》の待合の娘で、明るくフラッパーなところがあり敗戦後の大映映画ではなかなか健闘していたのだが、なんといっても折原啓子の正統派美人のデビューが強烈すぎた。
当時、彼女の顔写真だけのポスターが街のいたるところに張ってあったのを記憶している。そうして私なども、ひさしぶりに映画スターらしい人が現れたなと思って眺めていた。
折原啓子の一年くらい後に三条美紀《さんじようみき》が出てきたと思う。これも素材としてなかなか大物の新人だった。そうしてチョイ先輩の鈴木美智子が、二人に押されてちょっとかすんでしまった。この名前は本名かもしれないが、どうも映画スターとしてはかすみそうな感じがした。鈴木美智子は大映から松竹に移り、ここでも芽が出ないと見るや、なにか啖呵《たんか》をきって映画を見限り、実家に帰って芸者になってしまったと思う。新橋あたりの芸者なら、そのほうが彼女のお好みの生き方だったかもしれない。
三条美紀は紀比呂子《きのひろこ》のお母さんといったほうがわかりがよいか。デビュー当時は三益愛子《みますあいこ》と親娘《おやこ》になって、母物映画が多かったように思う。美貌《びぼう》でもあったけれど、あまり役者っぽくなく、むしろ普通のお嬢さんという感じを残しており、それがヤミ市時代には、別世界のような魅力になっていたと思う。
折原啓子は三条と対照的に、いかにもメロドラマの主役らしく、薄倖《はつこう》の庶民の娘が多かった。昭和二十年代はずっとスターだったが、結核だったらしく、中年以後、私もマージャンなどやったが、気の毒なほど痩《や》せて、いかにも病人といった感じだった。
同じ大映でも時代劇のほうは、特殊な環境、特殊な演技が要求されるのか、あまり新人が出ない。戦時中に江原良子を育てたのみ。戦後は喜多川千鶴《きたがわちづる》まで新人皆無。彼女とて、日高梅子という名で新興映画の子役だったのだから、まったくの新人ではない。新興のころは、姉二人と一緒に日高三姉妹といわれておなじみの子役だった。成人して喜多川千鶴として出てきたら、顔が右太衛門《うたえもん》と同じくらい大きく、どっしりとして姐御《あねご》的色気があった。時代劇専門の女優として貴重だったが、今は引退しているという。
東宝では、まず浜田百合子《はまだゆりこ》であろう。当時、日本人の小柄《こがら》な体格が、なんとなく劣等感を呼んでいたころで、それかあらぬか、女性も外国人並みの大柄な子を好む風潮があった。浜田百合子はその点をすべて満たしていて、アメリカ女のようにグラマーで、ハキハキしていた。
「民衆の敵」という今井正監督の映画がデビュー作で、花柳小菊《はなやぎこぎく》と一緒にナイトクラブで働く女性を演じていたが、二人とも大きかった。
その直後に有名な東宝争議があり、東宝のスターたちは新東宝に移ったため、東宝としてはニューフェイスに頼らねばならなくなる。
そのときに「明日を創《つく》る人々」という不思議な(?)映画があって、立花満江という新人が出ていたが、ごらんになった方があるだろうか。
監督が山本|嘉次郎《かじろう》、黒沢明、関川秀雄の三人共同で、まだ文学座時代の森雅之《もりまさゆき》、浜田百合子あたりが出ている。争議のために東宝撮影所が従業員組合の管理になっていたときに作られた映画で、労働組合を組織せよ、というテーマだった。
どういう事情でそうなったか、今もって自分でもよくわからないのだが、私もあの東宝争議のときに、あの中に居て、撮影所に泊りこんだりしていたのだ。そのころ、私はどこにも勤めておらず、麻雀《マージヤン》を打ったりしていたころで、ひょっとしたら、撮影所の人と麻雀でも打っているうちにまぎれこんだのかもしれない。どうも赤面する思い出だが、進駐軍の戦車が来てバリケードをこわすなどという噂《うわさ》もあり、けっこう昂奮《こうふん》して組合の人と持ち場を守っていた。ニューフェイスの人たちがときどき炊出《たきだ》しの握り飯を配ったりしてくる。思えばあの中に若山セツ子や久我美子《くがよしこ》も交じっていたのかもしれない。
そういうわけで、この映画、どこかでやらないかな、と思っているのだが、さっぱりその名をきかない。立花満江という新人も、その後あまり見かけないままに、印象もおぼろになってしまった。
争議が終わると、メロドラマばかり作っている新東宝にくらべて、本家の東宝のほうは「わが青春に悔なし」とか「今ひとたびの」とか、なかなかの作品を続けて作った。
「四つの恋の物語」というオムニバス映画で、若山セツ子や久我美子がニューフェイスとして出てきたのもそのころだ。久我美子は華族の娘ということで話題になったが、実に初々《ういうい》しい感じの娘さんだった。その初々しさは、四十年たった今でも残っているから不思議な人だ。
若山セツ子も可愛《かわい》らしかった。「四つの恋の物語」では、久我美子が池部良《いけべりよう》と初恋をささやくカップルになり、若山セツ子はエノケンにほれられる踊り子になっていた。そうして浜田百合子は空中サーカスの芸人。
そうしてこのあとの「銀嶺《ぎんれい》の果て」で若山セツ子は三船敏郎の相手役をやり、「青い山脈」で人気を高める。まったくあのころの若山セツ子は、いかにも庶民的な、そこいらにいくらでも居そうで居ない、かわいい小娘だった。後年の哀《かな》しい最期《さいご》など、まるで想像できない。ここまで記した中にも故人になった人も居るけれど、女優さんは特に売り出し当時のピカピカが眼《め》に残っているだけに、その変わりようの烈《はげ》しさにびっくりする。現今のタレント諸嬢が四十年後に、どんな姿で居るだろうか。
松竹の逸材木下恵介監督の「わが恋せし乙女」でデビューした井川邦子《いがわくにこ》は、実をいうと戦時中から出ていた河野敏子が改名して出直したもので、こういうケースは各社にある。しかし井川邦子はみずみずしく、優しい肌《はだ》ざわりで、新人として及第点をとった。
そのせいか、その後も木下恵介作品によく出ている。「結婚」「肖像」「カルメン故郷に帰る」「二十四の瞳」など。目下、鎌倉で喫茶店をやっている由《よし》。
奈良光枝《ならみつえ》はレコード歌手だが、「或る夜の接吻」で主演し、これも接吻女優と呼ばれた。たしか、傘《かさ》をさして歩いていくアベックの意味ありげなポスターがあったと思う。なかなかの正統派美人で、東北なまりはあったが、このころはよく映画に出ていた。
同じく大映の「パレットナイフの殺人」でデビューした小牧由紀子、西条秀子のうち、西条は水原久美子と名を変えて東宝から再出発しているが、やはり長くは続かなかった。同じころの大映ニューフェイス及川千代も、宣伝をしたわりには伸びなかったようだ。
以上がだいたい、敗戦後一、二年のところでデビューした人たちだが、今ふりかえってみるとやはり感慨ひとしおである。
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