—徳川夢声《とくがわむせい》のこと—
徳川夢声という名前は、赤坂の葵館《あおいかん》の主任弁士になったときにできたのだという。葵は徳川家の家紋だから、というわけだろう。もちろん、小屋のほうでつけたのだ。
夢声、というのと、毒掃丸《どくそうがん》、というのと、二つ候補があがっていた。徳川毒掃丸に定《き》められなくてよかった、と後年に夢声がいったという。
名前なんてものはいいかげんにつけるに限る。考えだすと、あれもこれも気にいらなくなってつけようがない。私もマージャン小説を書くときの芸名を定めるときに、口から出まかせに、あさだよあけだ、といったが、語呂《ごろ》がわるいというので、あさだてつや、になった。まア、阿佐田夜明太、じゃなくてよかった。
夢声、それまでの芸名は、福原|霊川《れいせん》、福原は本姓だ。活弁の師匠の清水霊山から霊の字をもらった。第二福宝館から秋田の凱旋座《がいせんざ》に引き抜かれたとき、ドロンをしていて、そのため東京に復帰する際に改名の必要があったという。
しかし、徳川夢声という芸名は、他人がつけてくれたにしてはなかなかのもので、大きくていい。徳川という名字に夢声という名が負けない。
二代目|猫八《ねこはち》の木下華声《きのしたかせい》は、あきらかにこの先輩の名前を意識している。徳川に対して、豊臣とつけたかったが、やっぱり遠慮して木下藤吉郎の木下になったのだそうで、もっとも豊臣華声じゃあまり愛嬌《あいきよう》がない。
その華声さんは、話術の神さまと称された夢声の朗読の間《ま》を、ノートに書き写していて、私もそれを筆記させてもらったことがある。
島にはひよどりが高く鳴いていた松が見える地味の痩《や》せをそのままの形にしているひょろ長い松だその木陰にチラと猩々緋《しようじようひ》の袖無《そでなし》羽織のすそがひらめいていた武蔵は
という具合に、普通の句読点《くとうてん》とちがう。
帯にはさんできた渋染の手拭《てぬぐい》を抜いて四つに折り汐風《しおかぜ》にほつれる髪をなであげて鉢巻《はちまき》とした右手には櫂《かい》を削って木剣とした手造りのそれを握った舟は急激にググッと進んで——。
華声さんによると、あの間はやはり映画説明者の経験の中で、自然に意識されたものであろうという。夢声の説明は、美辞麗句で押しつけがましく謳《うた》うようなスタイルではなくて、比較的リアルな言葉遣いであったらしい。そうして黙っている時間が長い。五分も六分も黙っているときがある。決闘だとか恋のクライマックスだとか、普通の弁士がやっきになってしゃべりまくる場面では、むしろ黙っている。
私は無声映画にはおくれてしまった年代だが、古老に訊《き》くとだいたいの印象は一致していて、ぽつり、としゃべっては沈黙し、観客に想像させ考えさせるタイムを意図的に作っていたらしい。映画は画面が具象的で動いているから、沈黙していたって客は苦にならない。なるほど山手《やまのて》の客に受けただろうと思う。
その間が、声だけのラジオでまた生かされたというのがおもしろい。けっして立て板に水のようにはしゃべらない。ラジオの聴取者もまた、その間の空間で、武蔵や小次郎の風貌《ふうぼう》を想像し、巌流島《がんりゆうじま》の風景を心で作っていった。
私の子供のころは、弁士はもう失業していて、浅草の�笑の王国�に加入したり、かと思うと文学座に参加して新劇役者になったり、ユーモア小説を書いたり、幅広い活動をしていた。けれども世間の印象は、活弁から転向した喜劇人という感じだった。それは東宝喜劇映画につきあって、脇《わき》で出ていたりしていたからであろう。
その一方で、「談譚《だんたん》集団」という漫談グループを主宰していた。夢声のほかに、松井|翠声《すいせい》、大辻司郎《おおつじしろう》、山野一郎、生駒雷遊《いこまらいゆう》、泉天嶺、井口静波《いぐちせいは》など、ほとんど活弁転向組で、私のような子供でも知っている名前が多かったのに、あまり興行価値がなかったようで、場末の端席《はせき》などを廻《まわ》っていた。
なにしろ皆年寄りで、漫談といっても、活弁時代の思い出など語る人ばかり多く古くさかったのであろう。
中学に入ったばかりのころ、巣鴨《すがも》の近くの端席に聴きに行ったことがある。
なるほど総じておもしろくなかったが、夢声だけは別だった。夢声はその夜、落語の�そば清�を餅《もち》でやる�蛇含草《じやがんそう》�を漫談調で立高座でやった。大食自慢の男が大家《おおや》のところで餅を五十個食う。熱い焼きたての糸を引くような餅をふうふういいながら食べはじめ、次第に無理食いになっていく、なかなかのパントマイムで、そばよりも餅のほうがドサッと腹に重たくたまるだけ迫力がある。
終わって電車道を歩いていると、レインコートに三ちゃん帽という目立たない恰好《かつこう》の夢声が、背を丸めて身軽く私を追い越していった。たしか運動|靴《ぐつ》をはいていたと思う。話術の神さまという格調はなくて、新聞販売店の親父《おやじ》が拡張に行くような感じだった。そうして、あれだけの餅を、たとえ話芸とはいえ迫力たっぷりに食ってみせたとは思えない素軽さだった。
そういえば、浅草の松竹演芸場にピンで出ていたときも、晴天だったのにレインコートで楽屋入りしていたと思う。まるで目立たなくて通行人も気がつかないくらい地味だった。
戦中戦後の夢声日記というのは実に細かく当時の日常が書きこんであっておもしろいけれど、映画のロケで、古川ロッパが中華料理屋で作らせた弁当を、わけて貰《もら》って食べるところがある。もう食糧が乏しくなっていたころで、ロッパは顔をきかせてぜいたくな折詰を作らせてきていたが、この弁当がござって[#「ござって」に傍点]いた。つまり腐っていた。
夢声はひとくちで、食べるのを中止したが、ロッパは平気でムシャムシャやってしまう。夢声はロッパの食中毒を心配している。ところが同じ日のロッパの日記を読むと、まるで平気で、その夜は風呂《ふろ》につかって、ああいい心持ち、などとご機嫌《きげん》なのがおもしろい。
その一方で、「談譚《だんたん》集団」という漫談グループを主宰していた。夢声のほかに、松井|翠声《すいせい》、大辻司郎《おおつじしろう》、山野一郎、生駒雷遊《いこまらいゆう》、泉天嶺、井口静波《いぐちせいは》など、ほとんど活弁転向組で、私のような子供でも知っている名前が多かったのに、あまり興行価値がなかったようで、場末の端席《はせき》などを廻《まわ》っていた。
なにしろ皆年寄りで、漫談といっても、活弁時代の思い出など語る人ばかり多く古くさかったのであろう。
中学に入ったばかりのころ、巣鴨《すがも》の近くの端席に聴きに行ったことがある。
なるほど総じておもしろくなかったが、夢声だけは別だった。夢声はその夜、落語の�そば清�を餅《もち》でやる�蛇含草《じやがんそう》�を漫談調で立高座でやった。大食自慢の男が大家《おおや》のところで餅を五十個食う。熱い焼きたての糸を引くような餅をふうふういいながら食べはじめ、次第に無理食いになっていく、なかなかのパントマイムで、そばよりも餅のほうがドサッと腹に重たくたまるだけ迫力がある。
終わって電車道を歩いていると、レインコートに三ちゃん帽という目立たない恰好《かつこう》の夢声が、背を丸めて身軽く私を追い越していった。たしか運動|靴《ぐつ》をはいていたと思う。話術の神さまという格調はなくて、新聞販売店の親父《おやじ》が拡張に行くような感じだった。そうして、あれだけの餅を、たとえ話芸とはいえ迫力たっぷりに食ってみせたとは思えない素軽さだった。
そういえば、浅草の松竹演芸場にピンで出ていたときも、晴天だったのにレインコートで楽屋入りしていたと思う。まるで目立たなくて通行人も気がつかないくらい地味だった。
戦中戦後の夢声日記というのは実に細かく当時の日常が書きこんであっておもしろいけれど、映画のロケで、古川ロッパが中華料理屋で作らせた弁当を、わけて貰《もら》って食べるところがある。もう食糧が乏しくなっていたころで、ロッパは顔をきかせてぜいたくな折詰を作らせてきていたが、この弁当がござって[#「ござって」に傍点]いた。つまり腐っていた。
夢声はひとくちで、食べるのを中止したが、ロッパは平気でムシャムシャやってしまう。夢声はロッパの食中毒を心配している。ところが同じ日のロッパの日記を読むと、まるで平気で、その夜は風呂《ふろ》につかって、ああいい心持ち、などとご機嫌《きげん》なのがおもしろい。
夢声はなんだか老《ふ》け顔で、夢声老などといわれたのは四十前後かららしい。五十歳になると、夢声|翁《おう》などと書きたてられた。本人も、まんざらそれが悪い気持ではなかったと見えて、ふだんも老けを作っているようなところがあった。
「エノケンの水滸伝《すいこでん》」という映画で仙人《せんにん》になって、中村メイコの子役がらみで出てくるが、それが実にさまになる。仙人なんていう役がぴったりくるのは、夢声と左卜全くらいなものではないか。
ところが計算してみると、そのころ、四十代なのである。「綴方《つづりかた》教室」の職人の父親、「彦六《ひころく》大いに笑う」の彦六、みんな老け役で、だから私は徳川夢声の若い顔というのは、写真でも見たことがないと思う。
誰かにきいたら、
「若いころはね、トーマス・エジソンに似てたよ」
といわれたが、エジソンの若い写真というのも見たことがない。
五十をすぎたころ、癌《がん》と中風、この二つにはなりたくない、といって、含宙軒と号していた。酒呑《さけの》みだから心配だったのだろうが、亡《な》くなったのは、たしか脳軟化症と新聞に記してあったと思う。葬式は無宗教で、華声さんの話では、白木の柩《ひつぎ》が一つ(当たり前だ)、香鉢《こうはつ》一個、線香箱一つ、燈明《とうみよう》一本、それだけだったという。花輪もなにもなかった。
夢声はケチだ、という説がずいぶんあって、いや、あれは合理の精神で立派だとかいう説もあったが、全体に明治人らしい質実の人だったのだろうと思う。酒だけが唯一《ゆいいつ》の無駄遣《むだづか》いだったらしい。
「文化人なんといわれてるが、実は文化|乞食《こじき》でね、四方からのもらい物で生きてるようなものさ。なにも売ってやしねえ。大風が吹きゃ吹っ飛んじまうような種族だよ」
などといっていた由《よし》。
テレビの初期に、金語楼《きんごろう》の八つぁん、夢声の隠居、という形のトーク番組があった。二人ともその役になって、アドリブで世相を語る。
二人のキャラクターもあって、鋭い切れ味はなかったが、けっこう茶呑み話の気楽なムードは出ていた。�こんにゃく問答�というタイトルをそのままに、談志の発案で、彼が八五郎、私が隠居という設定でやらないか、といってきた。諸事にわたって人前に出るのが大嫌《だいきら》いなので、両手を振っておことわりしているけれど、そのときにふと思った。もし私が出好きで、やりたがったとしても、隠居のパートは困難であろう。
第一に、あの気むずかしい顔が定着しない。私もわがままだけれども、当世風に愛嬌《あいきよう》を浮かべる弊があって、明治人のあの不機嫌そうな顔というものは、もう今の世の中では見られなくなった。
苦虫をかみつぶしたような顔、これがもう我人《われひと》ともにできない。そんな顔をふだんしていたひには、飯の食いあげになるおそれがある。考えてみるとあれは存外に大事な表情であって、昔は諸事の基本の顔でもあった。
銭湯に行ったって、一人二人はそういうおじさんが絶対に居る。水を出すと、ぬるい、と怒りそうだし、騒げばたしなめられる。電車の乗り降りから、食事の作法まで、いつもお行儀をいわれそうでまたそういうおじさんの叱言《こごと》を土台にしてはねっ返りが育ったりする。
内田百《うちだひやつけん》なんという人はそのキャラクターを活字に定着させた人で、苦虫をかみつぶしたような顔で、実はおっちょこちょいだったりするからおもしろい。夢声もそういうタレントで、苦虫の裏側の軽みがよく生きていた。
「エノケンの水滸伝《すいこでん》」という映画で仙人《せんにん》になって、中村メイコの子役がらみで出てくるが、それが実にさまになる。仙人なんていう役がぴったりくるのは、夢声と左卜全くらいなものではないか。
ところが計算してみると、そのころ、四十代なのである。「綴方《つづりかた》教室」の職人の父親、「彦六《ひころく》大いに笑う」の彦六、みんな老け役で、だから私は徳川夢声の若い顔というのは、写真でも見たことがないと思う。
誰かにきいたら、
「若いころはね、トーマス・エジソンに似てたよ」
といわれたが、エジソンの若い写真というのも見たことがない。
五十をすぎたころ、癌《がん》と中風、この二つにはなりたくない、といって、含宙軒と号していた。酒呑《さけの》みだから心配だったのだろうが、亡《な》くなったのは、たしか脳軟化症と新聞に記してあったと思う。葬式は無宗教で、華声さんの話では、白木の柩《ひつぎ》が一つ(当たり前だ)、香鉢《こうはつ》一個、線香箱一つ、燈明《とうみよう》一本、それだけだったという。花輪もなにもなかった。
夢声はケチだ、という説がずいぶんあって、いや、あれは合理の精神で立派だとかいう説もあったが、全体に明治人らしい質実の人だったのだろうと思う。酒だけが唯一《ゆいいつ》の無駄遣《むだづか》いだったらしい。
「文化人なんといわれてるが、実は文化|乞食《こじき》でね、四方からのもらい物で生きてるようなものさ。なにも売ってやしねえ。大風が吹きゃ吹っ飛んじまうような種族だよ」
などといっていた由《よし》。
テレビの初期に、金語楼《きんごろう》の八つぁん、夢声の隠居、という形のトーク番組があった。二人ともその役になって、アドリブで世相を語る。
二人のキャラクターもあって、鋭い切れ味はなかったが、けっこう茶呑み話の気楽なムードは出ていた。�こんにゃく問答�というタイトルをそのままに、談志の発案で、彼が八五郎、私が隠居という設定でやらないか、といってきた。諸事にわたって人前に出るのが大嫌《だいきら》いなので、両手を振っておことわりしているけれど、そのときにふと思った。もし私が出好きで、やりたがったとしても、隠居のパートは困難であろう。
第一に、あの気むずかしい顔が定着しない。私もわがままだけれども、当世風に愛嬌《あいきよう》を浮かべる弊があって、明治人のあの不機嫌そうな顔というものは、もう今の世の中では見られなくなった。
苦虫をかみつぶしたような顔、これがもう我人《われひと》ともにできない。そんな顔をふだんしていたひには、飯の食いあげになるおそれがある。考えてみるとあれは存外に大事な表情であって、昔は諸事の基本の顔でもあった。
銭湯に行ったって、一人二人はそういうおじさんが絶対に居る。水を出すと、ぬるい、と怒りそうだし、騒げばたしなめられる。電車の乗り降りから、食事の作法まで、いつもお行儀をいわれそうでまたそういうおじさんの叱言《こごと》を土台にしてはねっ返りが育ったりする。
内田百《うちだひやつけん》なんという人はそのキャラクターを活字に定着させた人で、苦虫をかみつぶしたような顔で、実はおっちょこちょいだったりするからおもしろい。夢声もそういうタレントで、苦虫の裏側の軽みがよく生きていた。