日本のショー芸人にはいいスタッフをかかえる余裕がなかったので、いいネタがなかなかできない。この点が泣きどころだった。ショー芸人のみならず、喜劇の世界でも曾我廼家《そがのや》喜劇に代表されるように自作自演の人が多い。逆にいうと自分でネタを作れる人が座長になっていくという感じがあった。
ショー芸人のほうで、ネタ作りの才能があって、楽屋内ではたくさんの芸人から敬愛されていた人が二人居た。片や泉和助《いずみわすけ》、片やパン猪狩《いかり》、どちらも私の好きな人物だったが、今は幽明境《ゆうめいさかい》を異《こと》にしている。
泉和助は私が子供のころ私淑していた二村定一のお弟子さんだから昭和十年代から知ってる。当時彼は本名の和田助紀でエノケン一座や吉本ショーなどに出ていた。本名を縮めてワスケちゃんといっていたが、いつのまにか芸名になった。
「女のアソコがあるだろ、泉さ、わ、すげえ! 泉和助だよ」
なんて本人が説明してくれた。彼は芸名をしょっちゅう変える癖があって、タニイケイ、新谷登《しんやのぼる》、これは彼流にいえば深夜に女体に登るというわけだろう。
中年になって日劇のバーレスクに定着したが、若かりし浅草時代のほうがキビキビしていておもしろかった。後年はショーの世界の水に染まりすぎて、芸人としては陰湿な感じだった。そうして半端《はんぱ》に醒《さ》めているのでギャグの部分でも大向こうにもう一つ受けない。ナンセンスに対する感性になかなか秀逸なものがあったのだが、本人が自分の芸に乗っていないことがありありわかる。長いことショーの世界に居て、感性が発達した分、大向こうの好みと離れてしまって、そこが屈託や自虐《じぎやく》を産む。その感じがよくわかって私はひそかに肩入れしていた。
この時分の後輩の内藤|陳《ちん》は今でも和ッちゃん先生と呼ぶし、幕内では敬愛されてもいたが、本人は次第に自閉気味になり、亡《な》くなったときはアパートの一人暮しで何日も発見されなかった。数日前に後輩の芸人が持参した酒瓶《さかびん》が一本、転がっていたという。
彼が死んだとき、若い芸人たちは競ってアパートに集まり、和助がいつもなにやらアイデアを書きこんでいたネタ帳の争奪戦が演じられたという。ところがそのネタ帳は、本人でなければわからない記号で埋まっていて、結局なにも役に立たなかった由《よし》。
もう一人のパン猪狩は、早野凡平《はやのぼんぺい》の帽子のネタや、東京コミックショー(弟のショパン猪狩がリーダーだ)のレッドスネーク、カモンのネタの作者といえばおわかりだろう。帽子のネタはその晩の酒代欲しさに早野凡平に五百円で売ったということになっているが、滝大作さんの聞書《ききがき》(『パン猪狩の裏街道中|膝栗毛《ひざくりげ》』白水社刊)によると、
「——アイツ(凡平のこと)無表情なの、役者じゃないから。だから帽子の変化がはっきりするわけ。俺《おれ》が演《や》ったらおもしろくない。人物に顔のほうがなっちゃうんだもの。帽子の変化が目立たない。あの帽子は顔と合わないからおもしろいんでね、だから凡平ちゃんに渡したわけ——」
といってる。パンさんは照れ性だから酒代欲しさに売ったというのは、自分でわざとそういっていたのだろう。もっとも早野凡平にしろショパン猪狩にしろ、ネタを苦心して時間をかけ、自分のものにしている。
昭和二十年代、パンさんが日劇に出ていたころ、弟のショパンは八百屋だった。いい条件で台湾の興行の話がきて、しかし芸人の頭数がそろわないので、パンさんが弟に「お前も芸人になれ、おもしろいぞ」てなことをいって巻きこんだ。すすめておいて、ちょうどまた当時売り出しのトニー谷なんかとの公演の話が来て、パンさんはツィーとそっちに行っちゃった。
舞台に出たこともない、東も西もわからないショパンさんは、いきなり一人芸をやらされた。今でも彼はそのときのことで兄貴を怒っている。いかにも芸人さんらしい話だが、そこから一丁前に這《は》い上がってきた弟もすごい。
何年か前に国立小劇場で芸術祭参加と銘打って色物だけの番組が組まれた。国立小劇場、それに芸術祭ときて、多くの芸人がふだんより行儀のいい芸になっていた。その中でショパン猪狩はすごかった。おなじみのターバンに腰巻き姿で登場するや、平素と同じくニヤッとしながらくねりと腰を動かしてまず臍《へそ》を見せたのだ。あのアナーキーなふてぶてしさ、これぞマイナーの芸人魂ともいえる舞台だった。
パンさんの舞台も昭和十年代のガマグチショー時分から見ているが、秀逸なのは戦後の女レスリングだった。パンさんがレフェリーで実妹の猪狩定子(これも怪女だ)などがドタンバタンやる。日劇ではパンスポーツショーというタイトルだったが、浅草では小屋がけでやった。ナンセンスなアイデアといかがわしさに満ちたおもしろい見世物だったが、さっそくに手入れ。官憲はエロだという。「実の妹と取ッ組んで、どうしてエロなのか」とパンさんが反撃したそうだ。
パンさんにはまだいろいろと傑作なネタがあるが、本人がやるとどうも難解になる傾向があって、泉和助と同じく大向こうにもう一つ受けない。�切腹�というパントマイムは、事情あって切腹した人物が、その最中に、事情も苦痛もいつのまにか乗りこえてしまって、自分の臓腑《ぞうふ》を焼鳥にして食っちまう。結局のところすべて食欲に帰してしまうそのヴァイタリティ。しかし七転八倒している最中にどうしてか酒に手が出てしまうあたりの飛躍が、大向こうをして笑うよりびっくりさせてしまうきらいがある。
パンさん独特のフラ(おかしみ)は、舞台で間断なく呟《つぶや》いている独り言だ。外国のタレントだと、ジャック・ベニイの捨てゼリフのおかしさだ。パンさんのはもっと庶民の内心のようなものがこめられている。外側を芸にするのはわかりやすいが、内心という個人的な、千差万別なものは、ドッと大向こうには受けない。
「わからなくていいの。ときどき、ひょいと感じて、共感してくれればいい」
と彼はいうが、ストリップの合間のコントだったりするから、客がそのつもりで観《み》ていないことが多い。パンさんがいちばん好きだったのは、大道で芸をしたり、お祭りの屋台に出たりすること。特にお祭りは好きだ。赤飯の折詰めが出るからだそうで、屋台ときくとギャラも定《き》めずにすぐに行っちゃう。
ギャラといえば、一昨年、浅草から熱海に引っ込んだときに、
「変なときに仕事がくるんだよ。俺、熱海だからっていうと、新幹線の切符をくれるの。だからしようがないよ。バカだねえ。浅草に居るときにくれば切符代なんかいらなかったのに」
パンさんの熱海の家は、建坪が一坪もない。崖《がけ》の上にそっくり突き出しているからだ。見晴らしは絶景だが、窓から下を見ると眼を廻《まわ》す。
何がきっかけだったか忘れたが、パンさんの晩年、急に死ぬほど親しくなって、ここ数年は親子のように行き来していた。
パンさんは来ると蝋《ろう》治療というのをやってくれる。蝋を溶かして身体に塗る。温シップと同じようなもので、疲れがとれる。が、それよりも私は、パンさんと一緒に居る一刻《ひととき》が楽しい。パンさんとしゃべっていると、私の身体からどんどん力が抜けていって、自然体というか、風にさまよってふらふらしているような軽い気分になってしまうのだ。
けれども軽いといってもけっして軽薄なものじゃない。パンさんは人生の責任を回避するようなギャグはいわない。意外に思う人もあるかもしれないが、根が本当に真摯《しんし》な人で、七十になっても平気な顔で、なやみ苦しみを打ち明けてくる。
そもそもパンさんの舞台でのおかしみも、なやみや淋《さび》しさに発したおかしさなのだ。値打ちもない自分という前提のもとに出てくる哀《かな》しみだ。
パンさんの聞書が出たので、出版記念会をやろうということになり、知友が新宿のキャバレーのようなところに集まった。晴れがましいことの嫌《きら》いなパンさんはあまり乗り気でなかったようだが、それでも嬉《うれ》しそうにスピーチをはじめたが、例のフラが混じりだしてとめどがなくなっちゃった。滝大作さんが、
「珍しくマジなことも言ってるよ。誰かテープにとってるかなァ」
といってるうちに、パンさんの声がとぎれたと思ったら、手真似《てまね》で夫人に、代わってスピーチを続けろ、という仕草をしている。キャバレーのライトが熱くて気分がわるくなったのだろう、と思ったが、とうとう救急車を呼ぶ羽目になった。大動脈が皮一枚でつながっていたのだそうで、ドラマチックだが知友一同の見送る中で死出の旅についたのだった。
数日後、病院に見舞いにいくと、何本かの管が刺さったパンさんが、利尿剤の注射を打ってもらうたびに、それこそ少量の小便を、ピュッと噴水のように出して見せて看護婦を爆笑させたという話を未亡人からきいた。
国立劇場で臍《へそ》を出す弟もすごいが、瀕死《ひんし》の床で、まだそうやってギャグをやる兄貴もすごい。パン猪狩は私にとって永久に忘れられぬ芸人である。