—春風亭柳朝《しゆんぷうていりゆうちよう》のこと—
はじめ、がんばれ柳朝、というタイトルにしようかと思って、やめた。がんばれベアーズじゃないけれど、がんばれ、とつければいいってもんじゃない。
かりに私が病臥《びようが》しているとして、ただがんばれといわれたっていやだ。私は、がんばってまで生きたくない。ごく自然にすっと生きて、すっと死にたい。
けれども、それを承知でやっぱり、がんばってくれ、といいたくなる。
春風亭柳朝、江戸前の、小ざっぱりした落語家だった。だったといっちゃいけないが、彼は数年前に倒れて、寝たきりである。私と同年だからまだ五十代という若さで。
妙ないいかただけれども、その当時、まるで倒れるのを前提として呑《の》んでるようなところがあった。糖尿で痩《や》せこけていて、一見して養生しなければいけない体調に見えたから、まわりはもちろん自重をすすめるけれど、きかない。なにしろ意地っぱりで、人が白といえば、どうしても黒に固執する男だから、素直にきくわけがない。彼の場合はそのうえ、自重をすすめられるたびに、逆の方向に突っ走ってしまうようなところがある。
「俺《おれ》ねえ、銀座で救急車を呼んだ回数の記録保持者だろうねえ。こないだも倒れてやったらピーポー来てね。乗務員が顔見知りでやがんの。三回。三回だよ。これを五回にしたいね。そうすりゃちょっと記録が破られないだろう」
江戸ッ子の突っ張り。私なんかにもその気分はよくわかる。自分でいうほど無茶呑みしているわけではなかったのだろうが、救急車の回数は事実だった。病院で長期入院を宣告されたそうだが、すぐ飛び出しちゃってまた呑んでいたらしい。
なぜ、そんなに破滅的に遊ばなければならなかったのか。よくわからない。これは想像で、まちがってるかもしれないが、糖尿がすすみ、皆から案じられるようになって、なんだかそれが恰好《かつこう》よくて彼自身その境遇に酔っちゃったんじゃなかろうか。同じ年齢で同じ江戸ッ子の私にもそういうおっちょこちょいのところがあるのだ。
ちっとも死に急ぎをすることないのに、もう長《なげ》ェことねえんだ、俺《おら》ァ駄目《だめ》だ、などという顔つきで、それがまたいい気分で——。
倒れるひと月ほど前、銀座の�きらら�という酒場(彼は不思議にけっして高くない、しかし格調のある店に居た)でばったり会った。私は伴《つ》れとカウンターの隅《すみ》に座ったが、反対側の隅で一人で呑んでいた彼が、なんだか人恋しそうで、席があくのを待っていたように、わざわざ私の隣に来て呑み出した。そのとき編集者と一緒でなければ、ひと晩じっくり二人で呑むところだったのに、今から思えば残念だ。
彼は珍しく落語の話など持ちかけてきたが(ふだんは職業に関係のないバカ話ばかりしていた)、伴れの手前、通りいっぺんの話になり、やがて彼も別の店に行くといって立ち去った。
私は柳朝が大好きだった。落語家というより個人的に親しみを感じていた。彼のふだんのキャラクターは、頭の切れる与太郎だった。こういうと、利口がわざと与太郎ぶっているようにとられるかもしれないが、そうじゃないので、頭が切れて、諸事器用で、人並み以上の能力を持っているにもかかわらず、与太郎なのである。そこがたまらなくおかしい。
林家照蔵といったころから(二十数年前だ)新宿の風紋とか四谷の賓客《まろうど》とかいうバーに来ていて、眼玉《めだま》をギョロつかせて毒舌をはいていた。私ははじめ鈴々舎馬風《れいれいしやばふう》(先代)ばりの異端派なのかと思ったが、そうではなくて当時から正統落語の有望若手だということだった。
とにかく雑学にくわしく、どんな話でも口を出して能書《のうがき》をいう。アメリカ映画に役者で出て数カ月、ロケで海外に行っていたことがあって、
「シナトラに、コイコイやオイチョカブを教えてやった」
といってたが、そのころ、矢野誠一と二人で映画館に入った。ジャン・ギャバンがギャングの親分で、パンにフォアグラを塗って食べる場面があった。
すると隣の柳朝が耳のそばに口を持ってきて、
「矢野やん、あれ、普通のペーストじゃないよ」
小声だが、十分に付近の客をも意識した声で、
「あれ、フォアグラ、鵞鳥《がちよう》のね——」
矢野誠一は今でも笑って話すが、知ってるよ、うるさいンだよ、ってことを吹きこむのが好きで、この点では�寝床�の旦那《だんな》に近い、義《ぎ》太夫《だゆう》じゃなくて、雑学をいやがる店子《たなこ》に吹きこむのである。
夢楽、円楽、それに柳朝あたりとはマージャンをやる機会が多かったころがあって、そんなときでも、一投一打能書が多い。麻雀|牌《パイ》の故事来歴を一人でしゃべりすぎて少牌《しようはい》してしまったことがある。
「戦後のドサクサのころに、ばくち打ちンところへ居候《ごんぱち》していたことがあってね」
などといっていたが、能書をいうわりに、あまり強くなかった。
そこがとてもいい。ダニー・ケイの「虹《にじ》を掴《つか》む男」という映画は、凡々たる市民がヒーローになる夢ばかり見ているという設定だったが、おそらく柳朝も、ばくちのヒーローや、遊びのヒーローを夢見ていたのではなかったか。
落語家になる前の敗戦後ドサクサ時代に三十近くの職業変転をしてるのだそうで、もっとも私なども当時は商売往来にないことをたくさんやっている。ただの腰かけとか、一日二日しかいないということでもあったのだろう。そのわりに林家正蔵《はやしやしようぞう》に入門してからが長く持った。正蔵は再々破門にしかけたが、当人がねばったらしい。
「気が短っかいからなにをやってもすぐあきちゃう。少し手に入ってくると、やめたくなってね。落語だってそうだよ。一生懸命になんかやってやしない。どうしようかなァって思ってるんだけど、もうやめてどうなる年齢《とし》でもないしね」
とマージャンをやりながらいっていたことがある。メンバーに同業が居ないときだ。
志ん朝と二人でやった「二朝会」のときも、
「皆、志ん朝をききにくるんだろうから俺は邪魔にならないようにやるよ」
といっていたそうだ。
自分が主役でないと思ったら、一気に隅のほうにひっこんで、悪あがきを見せない。石にかじりついてもここで逆転してやろうなどという根性がない。淡泊、見栄坊《みえぼう》、恥かしがり屋。
あるんだなァ、私にも。
柳朝を眺《なが》めているとつくづく自分との共通点を感じる。よくもわるくも都会ッ子。意地っぱりだし、ファイトもあるのだが、それを絶対に表面に見せようとしない。
それで好んで悪ぶった。服装なんかでも、変なアロハシャツを着たり、ギャングまがいのスーツを着たり、児戯に類するおシャレをする。それほど好きでもなさそうな酒にむりに溺《おぼ》れてみせる。
前に救急車で持っていかれたときは、点滴をひきぬいて、また呑みに行っちゃったという。
弟子の春風亭|小朝《こあさ》が、ゴボー抜きに先輩を抜いて真打になって、師匠のツキを残らずさらいでもするように人気者になったころ、何度目かの救急車で運ばれて、今度は動けなかった。
柳朝と親しかった矢野誠一が、ときどき、彼の様子を面白哀《おもしろかな》しく話してくれる。
「どうもね、再起はむりらしいな」
「あ、そう、絶望的なの——?」
「いえ、生命《いのち》はとりとめるようだけど、半身不随でね。第一、口が——」
「しゃべれないのか、それは困ったねえ——」
以前に、画家の友人がまだ三十代で若年性高血圧という奴《やつ》で倒れてしまったことがある。その前夜、街でばったり会って、ちょうど私が新人賞などもらったころで一緒に呑んだ。あのとき呑まなかったらと思って、長いこと気がとがめていたものだ。その友人は夫人に逃げられ、半身不随の身で、妹さんがつきそっていた。
妹さんは劇団に属しているので、地方興行のときは居なくなる。ある日、またしばらく来られない旨《むね》を告げると、正常な右半身のほうの眼は冷静なのだが、不随の左半身のほうの眼から、ポロポロ涙をこぼしたという。
落語家が、口が不自由になったら、河童《かつぱ》の皿に水がなくなったも同然で、内心の苦しみはどんなだろう。
若い弟子たちが見舞いに行くと、威勢のいいカミさんが、病人を指さして、
「ホラ、あんたたち、江戸ッ子だなんて意気がってると、こんなふうになっちゃうんだからね。いいお手本におしよ」
むろん、当人は、あわわ、と怒る。
このカミさんは以前水商売の出身で、どうも柳朝は、落語家ってものは水商売の女と一緒になるのが形ってものだ、と思っていたふしがあり、それで一緒になったようなところがあるようなのだが、なかなか賢妻というべきか。
「あの人、怒らせておいたほうがいいんです。そうでないと落ちこんじゃってて、怒れば生きるエネルギーにもなるし、なにくそって気がおきないとねえ」
三笑亭夢楽が見舞いに行ったときは、いくらか動くほうの手を少しあげて、なにか目顔でいいかけている。
その対象物は時計で、寄席《よせ》の出番の時間だろうから、もう行ってくれ、といっているらしい。
お節介の柳朝で、人に注意したりすることが好きだったが、こんな身体になってもこっちのことを案じてるのかと思って、
「いいんだよ、気にするな、寄席なんか抜いたっていいんだ。それより、なかなか来られないから、今夜はゆっくりしていくよ」
ホロリとなって昔話をはじめた。
そうしたらカミさんが、手拭《てぬぐい》を病人の顔に蓋《ふた》するようにハラリとかけて、
「はい、もうここまで」
といったという。柳朝の泣き顔を見せまいと思ったのか、これ以上落ちこんだらいけないと思ったのか。
いっとき、一生懸命リハビリをして、なんとか口跡を戻そうと本人も大努力をしたようだが、今はあきらめの時期に入って静かにしているらしい。
矢野誠一の話によると、そのかわり、もともと頭はよいほうだったが、ますます冴《さ》えてきて、病気前よりよくなったという。
落語はもうむりとしても、とにかく少しでも身体の不自由がとれて、おだやかな後生《ごしよう》がおくれるといい。今、この一文を記して、好きな人だったなァ、と改めて思う。
弟子の春風亭|小朝《こあさ》が、ゴボー抜きに先輩を抜いて真打になって、師匠のツキを残らずさらいでもするように人気者になったころ、何度目かの救急車で運ばれて、今度は動けなかった。
柳朝と親しかった矢野誠一が、ときどき、彼の様子を面白哀《おもしろかな》しく話してくれる。
「どうもね、再起はむりらしいな」
「あ、そう、絶望的なの——?」
「いえ、生命《いのち》はとりとめるようだけど、半身不随でね。第一、口が——」
「しゃべれないのか、それは困ったねえ——」
以前に、画家の友人がまだ三十代で若年性高血圧という奴《やつ》で倒れてしまったことがある。その前夜、街でばったり会って、ちょうど私が新人賞などもらったころで一緒に呑んだ。あのとき呑まなかったらと思って、長いこと気がとがめていたものだ。その友人は夫人に逃げられ、半身不随の身で、妹さんがつきそっていた。
妹さんは劇団に属しているので、地方興行のときは居なくなる。ある日、またしばらく来られない旨《むね》を告げると、正常な右半身のほうの眼は冷静なのだが、不随の左半身のほうの眼から、ポロポロ涙をこぼしたという。
落語家が、口が不自由になったら、河童《かつぱ》の皿に水がなくなったも同然で、内心の苦しみはどんなだろう。
若い弟子たちが見舞いに行くと、威勢のいいカミさんが、病人を指さして、
「ホラ、あんたたち、江戸ッ子だなんて意気がってると、こんなふうになっちゃうんだからね。いいお手本におしよ」
むろん、当人は、あわわ、と怒る。
このカミさんは以前水商売の出身で、どうも柳朝は、落語家ってものは水商売の女と一緒になるのが形ってものだ、と思っていたふしがあり、それで一緒になったようなところがあるようなのだが、なかなか賢妻というべきか。
「あの人、怒らせておいたほうがいいんです。そうでないと落ちこんじゃってて、怒れば生きるエネルギーにもなるし、なにくそって気がおきないとねえ」
三笑亭夢楽が見舞いに行ったときは、いくらか動くほうの手を少しあげて、なにか目顔でいいかけている。
その対象物は時計で、寄席《よせ》の出番の時間だろうから、もう行ってくれ、といっているらしい。
お節介の柳朝で、人に注意したりすることが好きだったが、こんな身体になってもこっちのことを案じてるのかと思って、
「いいんだよ、気にするな、寄席なんか抜いたっていいんだ。それより、なかなか来られないから、今夜はゆっくりしていくよ」
ホロリとなって昔話をはじめた。
そうしたらカミさんが、手拭《てぬぐい》を病人の顔に蓋《ふた》するようにハラリとかけて、
「はい、もうここまで」
といったという。柳朝の泣き顔を見せまいと思ったのか、これ以上落ちこんだらいけないと思ったのか。
いっとき、一生懸命リハビリをして、なんとか口跡を戻そうと本人も大努力をしたようだが、今はあきらめの時期に入って静かにしているらしい。
矢野誠一の話によると、そのかわり、もともと頭はよいほうだったが、ますます冴《さ》えてきて、病気前よりよくなったという。
落語はもうむりとしても、とにかく少しでも身体の不自由がとれて、おだやかな後生《ごしよう》がおくれるといい。今、この一文を記して、好きな人だったなァ、と改めて思う。