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なつかしい芸人たち23

时间: 2020-04-08    进入日语论坛
核心提示:日曜娯楽バーン    三木鶏郎《みきとりろう》のこと※[#歌記号、unicode303d]モゥシモシ アノネアノネ アノネこゥれか
(单词翻译:双击或拖选)
日曜娯楽バーン
    —三木鶏郎《みきとりろう》のこと—

※[#歌記号、unicode303d]モゥシモシ アノネ
アノネ アノネ
こゥれからはァじまる
冗談 音楽
の、三木鶏郎の名前を、そういえば久しくきかないなァ、と思っておられる方が多いだろう。ひところ、糖尿病患者の会など作って、糖尿病のPR(?)をされているような趣があったから、私もうっかり、病床にでもついておられるのかと思っていた。三木さんは、ちゃんと健在で、なぜか日本を離れて、サイパン島で隠遁《いんとん》というか、悠々《ゆうゆう》自適というか、そういう暮しをされているらしい。
サイパンはいいところである。国連が管理していて、外国人に土地を売らないので、お隣りのグアムのように極彩色《ごくさいしき》の観光地にならず、今日珍しく静かな安息の気をただよわせている島だ。私もいつかは、あそこで寝椅子《ねいす》にでも転がって終日うつらうつらと居眠りをして暮したい。
それはそうだけれど、同時に、あの多才な人が、なんでまたサイパンに、とも思う。よほどの決意がないと、仕事のほうが追っかけてきて、なかなか隠居できないだろう。
なんだか、人嫌《ひとぎら》い、世間嫌いになっちまった、という説がある。実際、かりに訪ねていったとしても、なかなか会おうとしないらしい。
「——あの人はね、親しくなった人から順に嫌いになっていっちゃうんだね。そういう癖があるから、結果として皆嫌いになっちゃう」
という人もある。
誰に訊《き》いても、サイパンに居る、とまでは判《わか》っているが、それ以上は、
「さァねえ——」
である。
私は面識はないのだけれど、�日曜娯楽バーン�の前の�歌う新聞�のころから耳に眼《め》に馴染《なじ》んでいて、そのイメージからいうと、そんなに暗い人だったかなァ、と思う。
まァすべて憶測であって、ご当人は別に暗い顔つきをしているのではないのだろうが。
 歌う新聞のころだったと思うが、田村町時代のNHKの前の飛行館劇場のアトラクションに常打ちで出ていたことがあった。それからこのころ、日劇のアトラクションに進出したこともある。
いずれも三木鶏郎がピアノでペースを作り、三木のり平、河井坊茶《かわいぼつちや》、小野田勇、千葉信男の四人でコントをやる。スピーディでモダンだったが、どこか素人《しろうと》っぽいところがあって、余分なアクがなく、なかなかよかった。
開幕、三人が、モシモシ、アノネ、と歌っているところへ、号外の鈴をつけたのり平が下手《しもて》から走り出て来、ヘトヘトになるまで走っている恰好《かつこう》で、プロローグがはじまる。
あののり平の姿がいまだに眼に浮かぶのである。私は広い日劇の舞台だと思っているが、のり平は、
「いや、それは飛行館だ——」
と主張してゆずらない。いずれにしても四十年ほど前の話だ。ついでに記すとのり平さんと昔の浅草の話をすると、ついお互いに熱して深更までになる。子供の私が浅草を徘徊《はいかい》していたころ、いくらか年長だがやはり子供に毛の生えたのり平さんも徘徊していた。笑の王国や吉本ショーやオペラ館、三木のり平のアチャラカの教養は子供の時分からの貯金がたっぷりあるのだ。
そういえば渥美清《あつみきよし》も、中学生時分から浅草喜劇をたっぷり見てまわっている。
裸の額縁ショーだけで有名になってしまった帝都座ショーに、不遇時代の森繁や、のり平、小野田、千葉が出ていたころがあり、勧進帳のパロディをヤミ屋でやったりしていておもしろかった。
古い話ばかりするようだけれども、この後、池袋文化という小屋でトリローグループが常打ちしたことがある。ちょうどストリップに押されている時期で、長くは続かなかったけれど、私は替り目ごとに行った。
河井坊茶が舞台では、ラジオほど精彩がなかったけれど、のり平が依然おかしく、千葉信男がのんびりした気分を漂わせていた。夭折《ようせつ》してしまったが、ミュージカルタレント(あまり歌おうとしなかったが彼の唄《うた》もひと味ある)の線などで伸びたかもしれない。
この時分には丹下キヨ子、旭輝子《あさひてるこ》、有島一郎あたりが加入し、林家三平《はやしやさんぺい》もここが初舞台だったと思う。彼はグリグリの坊主頭《ぼうずあたま》だったが、すでにしてアンサンブルをかき乱す怪演をしていた。
考えてみるとトリローグループを、ステージでばかり見ていて、ラジオ・テレビのほうでは私は馴染みがうすい。というのはこのころ、ばくち三昧《ざんまい》で、生涯《しようがい》ばくち打ちで暮そうと思い定めていたころだった。
私は他の職業というものを何も考えなかったが、それでもそのころ、なんとなく気がかりな人物といえば、三木鶏郎だった。
トリロー文芸部というのがあって、私は実際のメンバーが誰だか知らなかったが、なんだかガヤガヤとして楽しそうな仕事だな、とうらやましかったし、どういう伝手《つて》があって集まったのだろう、と思っていた。
彼等の仕事がうらやましかった理由は、
㈰伝統的なラジオ演芸でなくて、新しいものを作るのに臆《おく》していない。
㈪ハンパな文芸趣味に毒されてない。
㈫音楽のセンスがよい。
この三つだったろうと思う。
——オ父サンハ闇屋《やみや》デス、オ母チャンハ闇ノ女デス、ボクハ闇ノ子デス、我ハ闇ノ子シラミノ子、サワグ上野ノ地下道ニ、煙タナビクガード下、我ガナツカシノ棲家《すみか》ナレ。
という河井坊茶の野放図な声を思い出す。配給だよりの時間で、麹町《こうじまち》の1班から9班までスケソーダラ——、という有名なのもあった。
しかしそれ以上に音楽的センスは当時の日本のリズム感覚の水準を抜いていた。服部良一《はつとりりよういち》がこの方面の鼻祖のようにいわれているが、それも否定はしないが、影響の大という点で、戦後の三木鶏郎がもっと評価されてしかるべきと思う。
三木鶏郎の音楽なかりせば、日本のラジオ・テレビに代表される軽文化は、現状にくらべて数段おくれていたのではなかろうか。
 トリロー作の歌曲、これは主としてラジオ・テレビで歌われていて、流行歌のようにレコードで発売することがすくないせいか、その時期だけで忘れられたりするが、けっこういい曲が多い。
ぼくは特急の機関士で、とか、南の風が消えちゃった、とか、フラフラ節、とか、乱暴にいうと書生節をモダンにしたような一連のもの。
涙は何の色でしょか、とか、夏が来たら、とか、秋はセンチメンタル、とか、抒情《じよじよう》的な一連のもの。
大別すると二つのラインがあるようだが、書生節的な曲のほうも、
※[#歌記号、unicode303d]南の風が消えちゃった
北風吹いてる焼跡に
建てた我が家はトタン張り
という主調が別の詞でくり返されたあと、
※[#歌記号、unicode303d]うわー 寒いよ
この冬
焚《た》くものが無い ハクショイ
ブリッジ風に挿入《そうにゆう》される部分の曲調がそれまでの日本の庶民歌にはなかったもので、和菓子の中にケーキが出てきたような趣があった。
そうしてそのあとのおびただしいCMソング。
※[#歌記号、unicode303d]ワ ワ ワ 輪が三つ
とか、
※[#歌記号、unicode303d]明かるい ナショナル
とか、
※[#歌記号、unicode303d]ポポン ポポン
ポポン ポポン
とか、
※[#歌記号、unicode303d]——家じゅ皆で キリン キリン
とか、
※[#歌記号、unicode303d]ジンジン仁丹
ジンタカタッタター
とか、あげればきりがない。民放初期はトリローメロディの洪水《こうずい》だった。そうして今日のCMソングが、これらにくらべてどれほどすぐれているかというと、ほとんど新展開がないように見える。
そういえば楠《くすのき》トシエという歌手は、まだお元気か。あれは存外に貴重な歌手だったと思う。CMソングで活躍した人は多いが、庶民性、健康性、真摯《しんし》な感じ、彼女に勝る人はなく、CMソングにいかにもぴったりだった。今レコードをきき直してみると、歌唱力もある。
丹下キヨ子もなつかしい。あの手の歌手は戦前から何人か居たが、個性で異彩を放っている。NDTから戦後東京レビューに居たころは、生かされなくてかわいそうだったが。
ただし、三木鶏郎の唄はいけない。くぐもり声で、きいていてひとつも心が弾まない。
トリロー文芸部からは、いろいろな人材が噴出した。
永六輔《えいろくすけ》、野坂昭如《のさかあきゆき》、神吉拓郎《かんきたくろう》、五木寛之《いつきひろゆき》、いずみたく、桜井順、神津善行《こうづよしゆき》、宇野誠一郎、越部信義、吉岡治etc。
トルコ小説の木谷恭介や芸能レポーターの風間知彦も居たそうである。
並べてみると、こりゃ何だ、という感じである。いずれも戦前の日本にはきわめてすくなかったタイプの才能人だ。
この広い世間で、天才が偶然一カ所に寄り集まることは考えられないから、これはやはり三木鶏郎の影響が多かれ少なかれあるのだろう。
昭和二十年代、バスのくせに屋根にポールをつけ、電線に沿って走るトロリーバスというものがあったが、皆まちがえて、トリローバスといったものだ。
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