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なつかしい芸人たち24

时间: 2020-04-08    进入日语论坛
核心提示:ブーちゃんマイウェイ    市村俊幸《いちむらとしゆき》のこと愛称ブーちゃんの市村俊幸をしっかり記憶しているお方は、もう
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ブーちゃんマイウェイ
    —市村俊幸《いちむらとしゆき》のこと—

愛称ブーちゃんの市村俊幸をしっかり記憶しているお方は、もう中年ということになるだろうか。亡《な》くなったのはつい四、五年前だけれど、スクリーンやブラウン管から姿を消してずいぶん久しい。それが突然のような印象があるので、その時点で亡くなったと思っておられる方も居ると思う。
念のために記しておくが、黒沢明監督の「生きる」という映画の中で、ブギを弾き歌うキャバレのピアニスト、あれが市村俊幸である。それから川島雄三監督の「幕末太陽伝」での田舎大尽の杢兵衛《もくべえ》さん。この日活時代はフランキー堺とコンビを組んだ笑劇「ああ軍艦旗」というシリーズもあった。
キネマ旬報の俳優名鑑を見ると、一九二〇年東京市|駒込《こまごめ》区の生れ。府立第五中学卒業後、日本医師会に勤めるも、生来の芸能好きから日劇ダンシングチームに応募して合格、とある。
なにしろ小学校の一年生でもう浅草を闊歩《かつぽ》していたと自分でいっていた。当時の浅草は毒花のような盛り場である半面芸能のメッカでもあって、私なども十歳前後から洗礼を受けているが、小学校の一年というのは早い。ませた子供がわざわざ浅草に出かけていくのは、他場所でも観《み》れる映画ではなく、レビューや実演のムードに浸るためである。
後年、話をきいてみると三木のり平がやっぱり幼にして浅草病にとりつかれていたらしい。渥美清もやっぱりそうでそれが嵩《こう》じて彼はストリップ劇場のコント役者になってしまう。三木のり平、渥美清は、日本を代表する秀抜なコメディアンだが、いずれも浅草の客席で、ギャグの教養を幼いうちに吸収しているのである。
太鼓腹の肥大漢でブーちゃんと呼ばれた市村俊幸が、なぜダンサーを志望したのかわからないが、おそらく彼としては観念的にはなんでもござれの感じだったのであろう。昭和十五、六年ごろは、浅草にくらがえして笑の王国や吉本ショーで、ショーバンドのピアノを弾いている。そういえばたしかに彼が居たなァ、という印象を私も持っている。私がはっきり市村俊幸を知ったのは敗戦から二、三年したころで、そのとき彼は、第二次編成くらいの南里文雄《なんりふみお》とホットペッパーズのピアニストだった。
私がばくちに明け暮れていたころで、エスカイアなどという高級クラブに、自慢にもならぬが出入りしていたが、そこの専属だった。南里のトランペット、小坂務のギター、市村のピアノ、狩野猛のベース、ハナ肇《はじめ》のドラムス、もう一人、名前を思いだせないがクラリネットが居て後年のようにデキシー一辺倒でなく、バップなんかもやっていた。ピアノは幼児からの独学だというが、実にノリのいいピアノだった。これは「生きる」をご覧になると片鱗《へんりん》がわかる。
なにしろバンドの世界は離合集散が烈《はげ》しく、しばらくしてホットペッパーズから消えたが、当時新宿で何度も潰《つぶ》れながら辛《かろ》うじて続いていたムーランルージュに行くと、座付バンドで一人目立つ存在がブーちゃんだった。隅《すみ》のボックスでソロでブギを弾く彼にスポットが当たったり、舞台にも出てきてコントなどやっていたと思う。日劇ミュージックホールでも、彼を見た覚えがある。このころはピアニスト兼ヴォードビリアンという感じであった。
ダンサーからピアニスト、弾き語りで唄《うた》も歌い、コントもやれる。テレビの時代を先取りしたような重宝なタレントで実際テレビ時代とともに花が咲くが、生涯《しようがい》を通じて、本質的にはミュージシャンであり、よくもわるくも音楽家|気質《かたぎ》の人だった。ツボにはまるとノルが、なかなか気むずかしい。
コメディアンとしても、役者としてもどこか素人《しろうと》。しかしそのどこか素人のところが、純粋の玄人《くろうと》よりも新鮮で、特にテレビのようなメディアには向く。
あれはブーちゃん自身がそう望んだのか、それとも器用なので周囲の誘導がそうだったのか。体型が肥《ふと》っていて愛嬌《あいきよう》があるから、コメディアン向きに見える。それで稼《かせ》げるから自然と間口が広くなったのだろう。
いずれにしても、ブーちゃんの内心とはちがう方向にどんどん発展した、とブーちゃんは後年いう。
「あたしも若いころは、天狗《てんぐ》で生意気だったもんだから、なァになんとかやれるさってんで、なんでも受けちゃうってやつでさね」
 日劇の同期生に矢田茂《やだしげる》というダンサーが居た。才能のある踊り手で、同時に怪人物。戦争中レビューが行き詰まると、さっさと上海《シヤンハイ》に行って外人租界でアナーキーなショータレントになっている。
もう一人、同時期の日劇に大道具係としてパン猪狩なるこれも怪人物が居た。この二人と市村俊幸を合わせて三人義兄弟。
パン猪狩は戦後のムーランのスカウト係みたいなことをしていた時期があって上海から引揚げてきた矢田茂が、ムーランのショーの中核になる。ブーちゃんがホットペッパーズから消えてムーランに行ったのもこの縁である。
矢田茂とはこのあともずっとからみがあって、ブーちゃんを語るうえにこの人ははずせない。
まもなくテレビ時代の幕あけ、彼はNHKテレビの専属第一号タレントだ。初期のテレビは技術未完成で、アドリブのきく才人でないと勤まらない。彼はうってつけで、ラジオ、テレビ、映画、舞台と多忙タレントの生活がはじまる。正直いって私は、この時期のブーちゃんよりもその前のジャズピアニストのころの彼のほうが印象に残っているのであるが。
特にブーちゃんに対してということでなく、愛嬌のいいお茶の間タレントのタイプを私はあんまり好まないのである。それで特に彼を注目していたわけではないのだが、思いおこすと、時々、「二十日鼠《はつかねずみ》と人間」とか「欲望という名の電車」とかシリアスな舞台に混ざりこんでいたりした。�海賊の会�というのはブーちゃんが中心で、主として脚本家や裏方を集め、芝居作りの意欲を満たそうとしたらしい。そのために私費で、青山にスタジオを建てる。それが騙《だま》されたかして建物も私財も失ってしまう。
ほぼ同時期に糖尿病。
そこからぷっつり、約十年、ブーちゃんは芸能界の表面に出てこない。
 映画やテレビでも人気が落ち目で、それに以上のことが重なったというのが一般的な見方である。ブーちゃん自身がタレント生活の空虚さに見切りをつけたという説もある。しかし私にはどうも頷《うなず》けない。まだまだネームヴァリューはあったし、話を持ちかけるスタッフも居たはずなのに。
今度、未亡人はじめ関係者に会って話をきいてみると、前記の諸条件に加えて矢田茂の存在が大きかったらしい。
矢田はダン・ヤダ・ダンサーズというショーチームを作って主にナイトクラブで活躍していた。業界では知られたチームだった。しかし日本ではこういうショービジネスが未発達だし、仕事場もすくない。結局、尻《しり》すぼみになって、新宿に�ギターラ�というフラメンコの店を出す。ブーちゃんは表面から姿を消して、終始、矢田茂の所のピアニスト兼アレンジャーになっているのである。ダンスのチームだから矢田茂としてはぜひ必要な人物であろうが、ブーちゃんとしてはどういうつもりか。矢田との友誼《ゆうぎ》か。もっと深い事情があるのか。結局、ギターラも借金の山を抱えて潰れ、矢田茂は車椅子《くるまいす》に身を寄せながら、債権者から身を隠すようにして亡くなる。
矢田茂に徹底的に利用されたのだという説もあるが、はたしてどうか。その悲運の時期に、ブーちゃんは二|廻《まわ》りも年下の女性と三度目の結婚をする。
「結婚は三度目で、二廻りも年上、糖尿病だし、銭もない。——結婚してくれないか」
といわれたそうで、相手は初婚のお嬢さん。このくらい無茶なセリフだと、逆にことわれなくなるらしい。ブーちゃんにいわせると、初対面のとき、娘さんのお辞儀が最敬礼だったので、こんな人は珍しいと思って、翌日求婚した由《よし》。
ところがこの夫婦、実質的に幸せだったようで、ぼくは人とこんなに毎日、本音でしゃべり合えたのははじめてだ、とブーちゃんはいったそうだ。
新宿で�|BOO《ブーズ》'S�というピアノバーをやり、ブーちゃんはそこで気ままにピアノを弾く。糖尿病で頬《ほお》がこけたので、顎鬚《あごひげ》を生やした。
その店のママ役、家庭の主婦役、看護婦役、三役を果たしたうえに、やっぱり内心はスポットライトを浴びたいのを知って、彼女自身がプロデューサーを買って出、ブーちゃんのリサイタルをやった。
そのリサイタルを観た松竹の演劇プロデューサーの寺川知男さんが、大竹しのぶのミュージカル�にんじん�にブーちゃんを起用した。
その舞台が好評で、続いて寺川製作の�古いアルバート街�という芝居に尾上松緑《おのえしようろく》と共演して、これも好評、ブーちゃんの晩年に文字どおり花が咲いた。
「尾上松緑——? あの人が俺《おれ》みたいな者と共演してくれるって?」
といって涙を流したという。彼は本業のピアノも含めて、自分は素人芸だ、と卑下しており、大名題が、素人役者の自分と一緒の舞台にたつことを拒否しなかった、そういう意味の感激らしい。表面は明るく見えたが、内実は神経質で屈託屋さんだったようだ。年齢とともに自分は贋物《にせもの》という思いが深くなり、本物へのこだわりが増した。勝子未亡人の話だと、友人もすくなかったらしく、その口から出る名前はほんの限られた人たちだ。
再びどっと仕事が来るようになったが、身体《からだ》のこともあり、途中で倒れたらいかんといって、依然BOO'Sでピアノを弾いていることが多かった。そうしているうちに脳出血、糖尿病との合併症で五十八年に永眠。まだ六十歳を少し出たくらいで(大正十年生れ)元気だったら、特にミュージカル畑で貴重な人材だったのに。�マイライフ、マイピアノ�というLP二枚組で、晩年のピアノをきいたが、本物か贋かはともかく、年輪が造った本物の優しさが満ちているレコードだった。
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