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なつかしい芸人たち22

时间: 2020-04-08    进入日语论坛
核心提示:歌笑ノート△本名、高水治男。生年月日、大正五年九月二十二日生れ。辰年《たつどし》。△十一人兄弟の次男として東京都下西多摩
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歌笑ノート

△——本名、高水治男。生年月日、大正五年九月二十二日生れ。辰年《たつどし》。
△——十一人兄弟の次男として東京都下西多摩郡五日市の製糸工場に誕生。幼時、眼《め》を患《わずら》って右眼はくも[#「くも」に傍点]がかかりまったく見えず、左眼には星があって、天気予報みたいだね、といわれた。
△——昭和十二年九月、近隣で馬鹿《ばか》にされ続けで口惜《くや》しくてたまらず、家出して、都内まで歩きづめで、はじめ柳家金語楼宅に行き弟子入りを望んだが、「お前みたいな化け物は駄目《だめ》」といわれた。あとは金馬《きんば》しか落語家の名を知らなかった。その日は上野の山で野宿。先代|三遊亭《さんゆうてい》金馬宅で「何かできるか」といわれて、村岡花子(ラジオ子供番組のニュースキャスター)と山羊《やぎ》の鳴き声をやった。とにかく居てみろ、といわれた。
△——前座名、金平。仇名《あだな》が�あんま�。金馬の息子の小学校に弁当を届ける。子供たちが「オーイ、加藤ンとこの化け物がきたぜ」。
△——金馬宅の寿限無《じゆげむ》という犬を散歩させていると「どっちがブルドッグだ」といわれる。身体《からだ》をはすっかいにして歩きながらブツブツと落語の稽古《けいこ》をしていたので、「気狂《きちが》いがなにかブツブツいいながら通るわよ」といわれた。
△——眼がわるいせいで、本をなめるように、匂《にお》いをかぐように読む。見えない眼のほうの側ですれちがうと、おかみさんでもわからなかった。
△——犬の散歩の途中で、近くの新宿の女郎屋に行ってチョイのま[#「チョイのま」に傍点]で遊ぶ。後日金馬が犬を散歩させていると、いつも菓子など貰《もら》う女郎屋に犬がぐいぐい入っていって、すべてバレた。
△——風呂場《ふろば》の隣りの三畳に寝起きして薪割《まきわ》りなどよく働いた。道に馬糞《ばふん》が落ちていると、「治男、おいしそうな馬の糞がある。朝顔の肥料にひろってこい」といわれて、寄席《よせ》へ行くときの紋付姿でも、平気でバケツをさげて拾いに行く。
△——大看板の桂文治《かつらぶんじ》について満州に慰問に行き、バイドクになって帰る。おかみさん立合いで手術。入院中、好物のキントンを持っていくと足音でわかるらしくニコニコしながら待っていた。退院後はじめてお風呂に行って、帰ってから、「ウレしいな、ウレしいな——」と裸で踊っていて、今度は肺炎になりまた入院。
△——おかみさんがパーマをかけたら、「おかみさん、どうしてそんな箒《ほうき》みたいな頭にするんです。丸がめ[#「がめ」に傍点](丸髷《まるまげ》といえない)にしてください」。
△——内藤町の交番の前に家出娘がいた。「どこも行くところがないなら、師匠の所の女中に世話するよ」と金馬宅に連れて行こうとして、婦女|誘拐《ゆうかい》未遂で捕まり、金馬宅に問い合せの電話が入った。
 戦時中、中学生のころ、神楽坂《かぐらざか》の寄席ではじめて彼を見た。歌笑というめくり[#「めくり」に傍点]があったから、もう二つ目だったか。十人くらいの客の前で「高砂屋《たかさごや》」をやったが笑い声ひとつたたない。なにしろ、極端な斜視で、口がばか大きくて、その間の鼻が豆粒のよう、ホームベースみたいにエラの張った顔の輪郭、これ以上ないという奇怪《きつかい》なご面相だ。醜男《ぶおとこ》は愛嬌《あいきよう》になるが、ここまで極端だと暗い見世物を見ているようで、笑うよりびっくりしてしまうのである。誰よりも当のご本人が陰気で、一席終わるとしょんぼりという恰好《かつこう》でおりていった。立ってもチンチクリンの小男で、がりがりに痩《や》せていた。
それからしばらくして、二度目に出会った歌笑は、別人のように自分のペースを作っていた。登場すると、奇顔を見ていくらかどよめいている客席を見おろすようにして、歯肉までむきだして笑って見せる。それだけでドッと来た。プロになったな、と思ったものだ。
△——入門七年で二つ目。金馬の前名歌笑を貰《もら》う。二つ目になっても、曲芸の春本助次郎など、高座で「今、アンマを呼びますから、オイ、アンマ、笛を取っておくれ」とからかわれていた。漫才に転向しようかと思って師匠に相談すると「その顔じゃ誰ともコンビになれないよ」。
△——台所で煮物をしていると「おかみさん、何煮てンの。僕、ちょうだい」とまつわりついて離れない。仕方なくやると「ああ、おいしいな、よかったな」マーケットの買物にもついてきて、大きな声で「おかみさん、なんか買ってよ」アメ玉を一つ買ってやると喜んで帰る。幼時|辛《つら》い思いをしたせいか、このころになって好んで幼児性を発揮した。
△——落語家技芸証明書——昭和十九年六月二十日付。
△——婚姻届、同年九月二十九日。
高水|二三子《ふじこ》、半年|姉《あね》さん女房。
△——見合いだが、写真でなく、高座を見てくれ、といった。彼女は少女歌劇ファンだったが、父親のほうが高座を気にいって乗り気になった。結納《ゆいのう》しようというときに赤紙(召集)が来て、話がこわれかけたが、その父親が、帰還するまで待つといった。金馬宅の隣りの旅館で初夜をすごし、翌日送別会、入隊したけれど丁種のせいか一カ月で見放されて帰ってきた。
△——そうして終戦。本人もびっくりするくらいのスピードで、超売れっ子になる。
 何もプラス材料のない中で、声だけは甘く、明るくて武器になった。歌笑純情詩集にしろ綴方《つづりかた》教室にしろ、あの朗々とした声が効果になっている。彼はまた膝《ひざ》でリズムをとりながら、楽器の擬音など交えながら、ジャズと称する唄《うた》を歌ったが、これも甘哀《あまがな》しい声が役立って、奇妙な芸になっていた。
彼の唯一《ゆいいつ》の趣味は読書で、乱読だったらしい。終戦後いち早く舶来コント集という小冊子が七、八冊シリーズで出ていて歌笑のコントのネタはこれだった。有名な豚の夫婦がキャベツ畑で昼寝して、トンカツになった夢を見るというのもそうで、私も同時期に愛読したからよく知っている。けれども歌笑にモダンなセンスがあったことも事実で、舶来コントをうまく自分の物に消化していた。
歌笑は師匠の金馬以外の当時の寄席関係者から、ゲテ物、異端、というあつかいしか受けていないけれど、まぎれもなく当時の誰よりもモダンであり、前衛であった。
△——金子進(現ビクター芸能)というマネジャーがついた。色物芸人でマネジャーがついたのは三亀松《みきまつ》が初。歌笑が二番目。金子は三亀松のマネジャーから歌笑に移った。その近代味にひかれたという。
△——ギャラ一高座二千円(当時最高)一カ月に四十日分くらいの仕事をし、三カ月先まで日程が埋まっていた。日劇や国際劇場に落語家がスターで出たのも初。
△——しかし旦那《だんな》としては頼りなく、仕事がキャンセルになると、きょうは稼《かせ》ぎがないから、といって茶碗《ちやわん》と箸《はし》を持ち、押入れに入って小さくなっている。夜遊びして帰宅して「ただいま」返事がないと下駄《げた》のまま「ただいま、ただいま」と叫びながら座敷まで上がってきてしまう。
△——昭和二十二年九月、小三治が五代目小さんを継いだすぐ後に、真打|披露《ひろう》。小さんとは対照的に、一つの花輪もなく祝儀《しゆうぎ》をくれる客もなかった。
△——依然として仲間内の冷視。しかし彼のひがみも加わっていたかも。ほかの劇場の楽屋とちがって、寄席の楽屋ではおとなしかった。まだ修業中の身だからといって弟子もとらない。洋服のまま高座に出たといって非難された。
△——柳家三亀松と同じ看板を出して一緒の舞台をやりたい、というのが夢だった。池袋山手劇場で二人を組ませたときマネジャーはすごく感謝された。
△——家、買ってもいいかしら、というので、どうぞ、貴方《あなた》が稼いだお金ですから、というと嬉《うれ》しそうに、もう大塚に手ごろなのをみつけてあるんだ、といった。現金で買ったあとで、建増しをした。それが完成しないうちに死亡する。
 ずっと以前、歌笑のことを小説にしようと思って、ずっと取材を重ねていたことがある。歌笑が端的にかわいそうで、小説に造る気にならず、材料は山ほどあったが放棄した。その折りの切抜きの一つに、斎藤信也氏の『人物天気図』という著作の中の歌笑の項がある。なかなかリアルな像なので、その一節をご紹介しよう。
——あんたの純情詩集の作者は誰、ときいたら、俄然《がぜん》八方|睨《にら》みの眼をむいて、
「テツ夜で物を書いてみろてんだ。創作の苦しみがわかるかってんだ」ときた。
じゃァずいぶん本も読んだでしょう。
「芥川、巌谷小波《いわやさざなみ》、広津柳浪《ひろつりゆうろう》、吉川センセ、西条センセ、谷譲次、今度、歌笑推理文学集を演《や》りますぞ」
あんたゲテといわれてますな。
「アタシ能力がないんだもの」と一応すねてみせたが「いわれても驚かねぇ。ゲテ結構。かむほど味があるなんてアタシァするめみてえな考えはねえや」
小唄やドドイツやらずに、ジャズだね。
「三味線に乗らねえもの」
お座敷は嫌《きら》いだって、
「芸者なんか嫌い。エラそうにしてて」
終《しま》いに曰《いわ》く、
「歌笑の没落はいつなりや、なんていうの、サミしいですねえ。何をいってやがる、お客さん笑いこけさせて、続きゃいいんだろうって、思ってるんですよ」
醜男という一事に生涯《しようがい》もがき苦しんだ歌笑の妄念《もうねん》のようなものが、暗く噴き出している会話である。
△——昭和二十五年五月三十日、夫婦生活誌の大宅壮一《おおやそういち》氏との対談をすませて、急ぎ足で昭和通りを渡ろうとして、進駐軍のジープにはねられた。内臓破裂で、即死だった。マネジャーは出演予定の映画の打合せで居《お》らず、ジープは逃げ去ったまま。目撃者はたくさん居たが、うやむやのままだ。新居完成祝いが一転して葬式になってしまった。享年《きようねん》三十三。
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