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なつかしい芸人たち30

时间: 2020-04-08    进入日语论坛
核心提示:金さまの思い出    柳家金語楼《やなぎやきんごろう》のこと柳家金語楼は昭和天皇と同じ年で、関東大震災のときには仙台に居
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金さまの思い出
    —柳家金語楼《やなぎやきんごろう》のこと—

柳家金語楼は昭和天皇と同じ年で、関東大震災のときには仙台に居た。仙台の医者のところで禿頭《とくとう》治療を受けていたのだと小島貞二さんがなにかに記している。すると、あの頭はいつから禿《は》げていたのかしら。
初年兵のときに熱病にかかったのが原因だともいう。大正から昭和にかけてフィーバーした兵隊落語は、初年兵のときの経験とおぼしいが、たしかにあの頭も効果になっていたはずだ。なにしろ私の物心ついたころに、中曽根さんの夜店のステッキをもう一段とスガレさせたような頭で、後年までずっと同じ顔をしていたから、私にとってどうも金語楼の年齢というのは印象としてははっきりしない。
以前、神楽坂《かぐらざか》の古い芸妓《げいぎ》が実感をこめていったが、金さまは若いころ美男でモテまくったそうだ。金さまの座敷ときくと売れッ妓《こ》たちが皆小走りに行った由《よし》。
なるほど、頭に髪のある写真を見ると丸顔ではあるが、艶《つや》があって精力的で、いかにも遊蕩児《ゆうとうじ》らしい色気がある。
それは十代のころの写真で、彼は芝の葉茶屋の伜《せがれ》。六歳のとき母親と寄席《よせ》に行って飛入りで高座にあがり、小噺《こばなし》とかっぽれを踊って大受けだったというから早熟児だ。で、天才少年落語家として二代目三遊亭金馬に入門(後柳家三語楼門に移る)。そのとき父親も一緒に入門して三遊亭金勝になった。変な親だなァ。
兵隊落語については私も子供のときラジオで何度かきいた。謹直な元軍人の父親が破顔一笑したのを覚えている。
初年兵が上官の靴《くつ》みがきや洗濯《せんたく》に苦労したあげく、名乗りがうまくいかず、
「リク、陸軍、歩兵、二等卒、山下ケツタロー(本名山下敬太郎)であります」
それがうまくいかなくて何度も、もといッ、になる。
「もといッ、カイグーン」
「バカッ、海軍じゃない、陸軍だ」
要するに新兵の不慣れの失敗談で、当時の男にとって大問題だった軍隊生活についての不安が共感になってフィーバーしたのであろう。私の場合は、元軍人の父親の、兵隊を見下げたような笑いが間にはさまるものだから、私は絶対に笑うまいとした覚えがある。
しかしギャグそのものも与太郎の変型でむしろ古臭かった。今考えるとラジオなので顔が見えなかったせいもあるかもしれない。金語楼はもうそのころ、寄席には出ていなくて、映画か、吉本系の実演でしか見れなかった。特に映画は精力的で、小ぶりの人情喜劇だったが本数も多かった。主家一筋のがんこ親爺《おやじ》という役どころで、�金語楼の大番頭�などは小ぶりな傑作だったと思う。
私の生家のある牛込矢来町では、金語楼は特別な意味あいで有名人だった。というのは彼の本宅が町内にあったから。刑務所のように背の高い黒板塀《くろいたべい》で囲まれた大邸宅で、私どもは学校の行き帰りに山下敬太郎という表札をみてはクスクス笑い合ったものだ。たしか息子さんが一級上ぐらいに居たと思う。
そうして、彼の妾宅《しようたく》が、附近に点在しているのを町の人々は皆知っていた。そのころの噂《うわさ》によると、金語楼は妾宅では、明治の元勲のようにいかめしい顔つきで口もきかずに酒を呑《の》んでいたという。
 しかし私はあることから金語楼の天才性をいっぺんに信用し、尊敬の念すら深めるに至った。それはもう戦争末期の空襲時代で、そのころは金語楼劇団も解散し映画も火の消えたようで、彼としても無聊《ぶりよう》の日をもてあましていたころだったと思われる。
生家のあたりも一面に焼け、彼のところもバラックか、いずれにしても仮住いだったろう。私の生家は焼どまりで、したがって町内の顔見知りが多いときには一室に一世帯ぐらい仮寓《かぐう》していたことがある。その中にYさんという町内の有力者の二代目が居て、Yさんの部屋には酒も食物もわりに揃《そろ》っていた。
金語楼が、Yさんとは旧交があったらしく、その酒を呑みにちょいちょい現れる、つまり私の生家に突然現れるようになった。来ると、Yさんが儀礼上、私たちの部屋に連れてきて父に紹介する。�王子の幇間《たいこ》�の一八のように「オヤ、猫《ねこ》さん、お元気で——」式の愛想をひとわたりいって、Yさんの部屋に移って以後は、なにを話しているのか、ひっくりかえるような笑声が絶えず、そのうち二、三時間したころ、すうっとお開きになる。
数日するとまたやってきて、わあッと笑って、すうっと帰る。
「いやァ、あいつが来ると肩のこりがほぐれますよ」とYさん。「こんな時代だもの、笑わなくちゃね。いえ、べつに私が呼ぶわけじゃないんだけど、さすが芸人ですね。鼻がいいや。ちょいと酒が手に入ったと思うと、必ず現れるんですよ。だからあいつが来た夜に酒がないってことがまだ一度もないんです」
私は、明治の元勲のような顔をして妾宅に居る金語楼と、間もおかずにひっくり返るような笑いをふりまく金語楼と、二つの顔を想像してみた。それは芸人だから珍しいことではない。プロの力であろう。
私が感心したのは、酒が手に入った夜に必ず現れる、ということだ。
Yさんの所ばかりではなく、町内の誰彼のところにも現れるらしい。当時、酒は貴重品で、やたらに誰のところでもあるわけでなかった。あっても他人に呑ませるものではない。そこを、どういう鼻を利《き》かせるのか、すうっと現れて呑んでいくという。金語楼は同じ町内ということで、皆、親しみを持ってはいたが、すべてと個人的交際があったわけではあるまい。金語楼なら突然入ってきても歓待するということだったのだろう。
同級生からもこういう話をきいた。
「不思議なんだよ。今夜、二合あるとするだろ。誰も二合なんてしゃべらないのに、金語楼さんが来て、わァッと家じゅうをわかしてさ、二合が出たなッと思うと、すうっと元の顔に戻って、帰っていくんだ」
「呼んだわけでもないのに来るのかい」
「そうだよ。夕方、町をぶらついて気配を見てるんじゃないかい」
実にどうも、偉い。空襲でどこもかしこも焼けて、むろん自分の家も焼けて、日本が負けるかどうかというときにお酒一筋に気を凝らして、狙《ねら》い定めてすうッと入っていく。
偉いともなんともいいようがない。兵隊落語や映画で感じていた俗な顔つきはあれは営業用のもので、本人は俗どころか、超俗的なものを持っている。
 戦争末期のあの金語楼を眺《なが》めていてよかったと思う。私は金語楼の笑顔を二度と軽く眺めなかった。というより、芸人を含めた庶民の一人一人の恐ろしさを、立証する材料を一つ掴《つか》んだような気がしていた。私の父親は金語楼が好き、つまり部下を愛するように愛していて、晩年の�ジェスチャー�などテレビで欠かさず観《み》ていたが、例の話をしたらどう思ったろうか。将校というものは、兵隊を、結局どう思っているのか。
それはともかく、金語楼は戦後も精力的に働いていた。多分、ギャラも手軽だったのだろう。たいがいは製作費の安い感じの映画だ。しかし、ひいき目でなく、どの映画でも彼だけはあまり手抜きをしていない。たとえば岡晴夫の�啼《な》くな小鳩《こばと》よ�というB級歌謡映画でも、金語楼だけでまァ観ていられる。ギャグのひきだしがせまいから、マンネリだ低俗だといわれたが、それなりに安定があった。エノケンもロッパも老いたらば時世とずれて、劇中の邪魔物でしかなかったのに。
戦後の日劇のショーで、ジャズの連中と一緒に出て、ディキシーの演奏で奇妙なソロを踊ったことがある。
改めて眺めると、そこには働き者の必死の表情があった。もしも、トレードマークの金語楼以外の金語楼を活用する演出家が居たら、インテリたちが軽視できずに恐ろしがるような庶民像がうまれたかもしれない。
その点、伴淳三郎《ばんじゆんざぶろう》と一脈通じるところがある。伴は、初期には白ぬりの二枚目しか主役をとれない時代だったから、また中期には軽喜劇の舞台を職場にしていたから、三枚目であっただけで、現在のように主役のガラの広まった時代なら、むしろシリアスな方向で伸びたと思うし、気質的にも実際家だったようだ。
金語楼は役柄《やくがら》が古風なだけで、けっこう新しがり屋だった。金語楼ジャズバンドを結成したのは昭和三年だというし晩年の�ジェスチャー�で水の江瀧子と、おにィさま、おねェさま、と呼び合っていた呼吸にも、充分にリズミックなセンスを感じる。そういえば、私は知らないが、若いころの高座で、金語楼純情詩集という唄《うた》い口調のネタがあって、それが戦後の三遊亭歌笑にゆずられ、柳亭痴楽《りゆうていちらく》につながる系図があるのだそうだ。
新作落語(は古風な新作だったが)のネタが千篇余、それに発明マニアというのも新しもの好きにつながるか。坂道昇降用|下駄《げた》というのは、前歯の高さがちがっていて、携帯してはきかえるというものだった。いかにも大正の平和な時代が息づいている。
いずれにしても、禿げ頭とくしゃくしゃになる表情と、頑固者《がんこもの》のおかしさと、それだけのことで永いこと命脈を保っていたのは、新しもの好きと健康だったからだろう。根底には戦争末期に見せたような、恐ろしいばかりの強さがあったからだろうが。
晩年まで元気一杯で、トーク番組で、
「先日ドックに入りましたら、お医者さんに、君の身体《からだ》は三十代の若さだねえ、珍しいよ、とほめられました」
上機嫌《じようきげん》で入院したが、半月もたたぬうちに病院で亡《な》くなった。腰痛で検査のために入院していたのだというが、病名は胃ガンになっていた。
爾来《じらい》、私は人間ドックを信用しない。
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