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なつかしい芸人たち31

时间: 2020-04-08    进入日语论坛
核心提示:アナーキーな芸人    トニー谷《たに》のことレディス エンド ジェントルメン エンド オ父ッツァン オッ母サン オコン
(单词翻译:双击或拖选)
アナーキーな芸人
    —トニー谷《たに》のこと—

——レディス エンド ジェントルメン エンド オ父ッツァン オッ母サン オコンバンハ——。
というようなトニイングリッシュで、昭和二十年代後半に日本中をフィーバーさせたトニー谷という芸人の魅力を、近ごろの若い人に説明しようとすると、実にむずかしい。
それは当たり前で、大戦争のあと、進駐軍だのヤミ市だのがあった奇妙な乱世の中におかないと、せっかくのセリフも浮きあがるばかりで少しもおもしろくない。
それにもうひとつ、トニー谷のギャグや毒気は、その後の芸人の中に意外に滲透《しんとう》していて、現在ではあの程度のハミだし方は誰もびっくりしない。
但《ただ》し、あんなに評判のわるかった(楽屋内でもそうだが、むしろ世間一般の人々に)芸人も珍しく、そのアクの強さはひと通りでなかったが、それが原因でスタアになるというところが説明しにくい。が、それ以外に説明すべき芸というものが見当たらない。
もっともスタア芸人というのはいつもそうで、芸でフィーバーさせる例はきわめてすくない。大体は、稲妻《いなずま》のように、世間の空気と微妙に衝突して光を放つ。
昭和二十三年ごろだったか、浅草六区でも隅《すみ》のほうの大都劇場に、劇団|美貌《びぼう》という混成一座が旗揚げした。中村是好、森八郎、高屋朗、高杉由美、江出勘太などという寄せ集めで、しかもアンサンブルのとれないメンバーで、そこに興味を感じて入ってみた。その旗揚げ公演のヴァラエティの司会に、トニー谷が出ていた。私はそれが彼を見た最初の経験だ。後年きいたところでは、兄弟分のパン猪狩が紹介して、はじめて浅草に、というより日本人相手の劇場の初舞台だったという。
だから名前も小さかったし、レディスでもジェントルマンでもなかったが、描《か》き髭《ひげ》に素通しの眼鏡、タキシードというスタイルはそのときから同じで、やはり人を喰《く》った司会ぶりだった。この手の芸人に非常にくわしいつもりだった私が初会で、ほう、こんな芸人が今までどこに居たんだろう、と思ったし、トニー谷といういいかげんな名前なので、誰か古手が戦後風に名を変えて出てきたのかと思った。まさか初舞台とは思わない。
ヴァラエティの終景で、出演者一同とともにエプロンへくりだしたときも、一人前に頭部を小きざみに揺する芸人歩きをしていた。
古いが、素行が悪いかしてシャットアウトされていたのが、敗戦のドサクサでカムバックしてきたのかな——。当時三十代のはずだが、髪の毛はうすかったし、ヴェテランに見えたものだ。
気をつけていると、ロイ・ジェームスや志摩夕起夫などに混じって、ジャズコンサートの司会にその名を見かけるようになる。
ケニー・ダンカンの事件(?)は朝鮮戦争のころだから、昭和二十五年か六年だろうか。ハリウッドスタアで射撃の名人が来日と報道され、オープンカーで街頭をパレードし、国際劇場に出るという騒ぎになった。結局射撃の腕はゼロでインチキだとされたが、ケニー・ダンカンはスタアではないが、二流西部劇によく出ていた仇役《かたきやく》で、私は子供のころからよく映画で観《み》ている。言葉の不通で記者が勘ちがいし、事が大きくなってしまったのだろう。オープンカーのケニーの隣に、メキシカンハットをかぶったトニー谷が群衆をあおっている写真を新聞で見て、私は一人で笑った記憶がある。うさん臭いパレードに、ケニーもトニーもいかにもはまり役だった。
 トニーの経歴は謎《なぞ》だといわれる。東京の銀座生まれで日本橋育ちだそうだ。それで長じて中国大陸、南京《ナンキン》や上海《シヤンハイ》に居たそうだが、なにをしていたか不明。戦時中だったが兵隊で行っていたわけではない。
もっとも学校など普通のコースを行かない場合、千変万化で当人にもわからなくなってしまうことがある。私などもそうで、二十年代前半は、いつどこでなにをしていたか、自分でも整然とできない。
しかしとにかく、初舞台をヴェテランと思わせるような度胸と人の喰い方が身につくくらいの泥《どろ》にまみれた生き方だったのだろう。大概の日本人は若いころに入った道を一生歩き続けるが、中年で変わり身を成功させたトニーの如《ごと》きは珍しいし、その意味での才覚もあったと思う。
敗戦でひきあげてきて、米軍専用のアーニーパイル劇場(現東宝劇場)で大道具をしていた。しかしパン猪狩と出会ったときは、基地の中でボーイをしていたという。パン猪狩も日劇の大道具の出身で、そんなところで気が合ったのか、パンちゃんは米軍のパンや缶詰《かんづめ》などをトニーから貰《もら》い(彼は基地を廻《まわ》ってパン・ショーというのを当時やっていた)かわりに日本の芸能界への橋渡しをする。
トニーはアメリカの慰問ショーなどをよく観ていた。外地が長く、もともとアナーキーであり、敗戦のショックから立ち直りつつあった日本人を客観的に捕まえることができた。日本全体がうさん臭くなっていたときであり、こういう様相はトニーにとってお手のもので、放《ほ》っといても先達的存在になってしまう。
乱世の案内人《ガイド》として突然人気者になり、ヤケッぱちな世相を無思想無責任に(無責任が躍動していた感じは後年の植木等とちがって地の迫力があった)あおりたてるばかりか、牢名主《ろうなぬし》のようにサディスティックに小突き廻すというのだから、これは新しい芸境で、目立つのも当然だ。ほかにもアナーキーだったり、戯画化の才分を持っている芸人は居たはずだが、トニーのようにしつこく熱心でなかった。まったくあのためらいのない晴れ晴れとした毒舌はどこで培養したものだろう。ひきあげ前のトニーの暮しにそれがひそんでいるはずだ。
好きなタイプの芸人ではないが、逆にまたこういう嫌《いや》みなもの、通常の世間に乏しいものを観るのが芸人に接する楽しみでもある。私は、世間に対して悪意、というほどでなくとも、積極的な善意を抱いてない芸人が居てもいいと思う。
 トニー谷の造った流行語。�バッカじゃなかろか��家庭の事情��さいざんす��きいてちょうだいはべれけれ��ネチョリンコン�
戦争末期の空襲時代のことを、
「——東京中がメイド・イン・アメリカのお方のお落としになりました飛行機のフンで、方々が全部サヨナラでございました」
というようないいかたをする。
「——おさしさわりがあったらごめんなさい。意識して申し上げてますから」
そうして客席から半畳が飛ぶと、
「シャラップ、阿呆《あほう》!」
などと怒鳴る。
ソロバンを打ち振り、合の手に歌ったが、しゃべると歯切れのいいよく響く声なのに、歌うと声量が乏しい。
が、芸の抽斗《ひきだし》はそれだけ。それだけでも充分といえなくもないが、たまさかのイベントのときならともかく、常打ちで定着しようとすると、まとまった芸がない。トニー造語の数が多いのは、造語を量産していかないと芸がもたないからでもある。そうしてヤケッぱちの突進のように、その道を突き進んだ。
愛児の誘拐《ゆうかい》事件(幸い無事で戻った)のころからおとなしくなった、といわれるが、それよりも乱世が過ぎ、トニーも年齢《とし》を重ねて、生活者であることを隠せなくなったからだ。誘拐事件は、彼もまた普通の父親だということを現してしまった。
邪道で出た者は(私はむしろ数すくない本流芸人の一人と思っているが)邪道を保持しなければ芸人生命を絶たれる。そのために林家三平《はやしやさんぺい》はじめ幾多の芸人がなんと苦しげだったことか。
彼は人気が落ちると、東京に住宅やマンションを持っていたのに、ハワイに移り住んだ。この点、象徴的だと思う。彼もまた生活者にちがいないのに、東京に定着できず、浮草のようなハワイの生活に走る。トニーが芸人として完《まつと》うするためには、妻子も持たず、おのれの生活を造らず、あくまでも無感情のピエロとして生き続け、その上で悪罵《あくば》の対象を次々とみつける。そうでなければ悪罵にリアリティがつかないのである。
数年前、浅草の楽屋で偶会した。女とみれば手をつけ、人を喰いまくった往年の面影《おもかげ》がなくて、彼は私の手をとり、直接には一面識もないのに、おなつかしいといい、鼻をすすって泣く風情《ふぜい》を見せたりした。もっともそれがトニー式の人の喰い方だったかもしれない。
永六輔が渋谷駅の階段の中途で休んでいる老人から声をかけられて、しばらくわからなかった。トニーの長年つけていた鬘《かつら》がなかったからだ。(彼は鬘を脱いだところを細君にも見せなかった由《よし》)
その出会いがきっかけで、永さんはトニーの復活に手をかして、ジャンジャンその他でのワンマンショーになったが、それも中途で終わる。トニーが亡《な》くなったからだ。
肝臓らしい、というだけで病名はいまだにわからない。通夜《つや》に行った芸人たちも、誰ひとり死顔を見ていないという。
「——今になってみると、哀れな人だったよ」
と芸人たちはいうが、それは世間友人を信用せず、孤独に死んだことをさすのか。一時代を築いたわりに、芸界からはじかれていたからか。
私は、それもこれもトニー谷という芸人の宿命で、むしろ、誰にも愛されずに生きた芸人、という独特の一生を貫いた人物として、拍手を送りたいと思う。
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