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なつかしい芸人たち29

时间: 2020-04-08    进入日语论坛
核心提示:リズムの天才    笠置《かさぎ》シヅ子のこと関西という土地|柄《がら》は、天才|肌《はだ》の女芸人を産み出す地盤がある
(单词翻译:双击或拖选)
リズムの天才
    —笠置《かさぎ》シヅ子のこと—

関西という土地|柄《がら》は、天才|肌《はだ》の女芸人を産み出す地盤があるらしい、玉松ワカナ、ミヤコ蝶々《ちようちよう》、今日喜多代、正司敏江《しようじとしえ》、今くるよ、という妙な系列ができるが、この中に笠置シヅ子や森光子を加えてもよろしいか。
この人たちに共通しているのは溢《あふ》れるようなサービス精神と庶民的なヴァイタリティだが、これはショービジネスの本筋であろう。なにかで読んで記憶に残っているが、笠置シヅ子は、袖《そで》のずっと奥から舞台めがけて全力で走っていって、センターマイクのところで急ブレーキでとまるのだそうだ。
「——見えんからいうて、のろのろ出て行ってたらあかん」
そういう談話がいかにも彼女らしい。
畏友《いゆう》和田|誠《まこと》が�麻雀《マージヤン》放浪記�を映画化してくれたときに、戦後の象徴的メロディとして、当時の曲を三本使用した。レス・ブラウン楽団の�センチメンタルジャアニイ�、岡晴夫の�東京の花売り娘�そして笠置シヅ子の�アイレ可愛《かわい》や�である。
アイレという南の島の娘のちょっぴり哀調をおびたかわいさと、大竹しのぶ演ずるまゆみ[#「まゆみ」に傍点]という娘の感じにダブらせてこの選曲になったのだろう。もっともこの曲はレコード発売は戦後だけれど、実は昭和十五、六年ごろの作で、笠置が戦時中ずっとアトラクションなどで持ち唄《うた》にしていたものだ。
敗戦後の象徴というと�東京ブギウギ�ということになるだろう。これは文字どおり全国津々浦々に大ヒットして、これで彼女はメジャー的存在になった。
が、私にとって笠置シヅ子は、その前に長いこと、特別に想《おも》いを焦《こ》がした時期がある。
�東京ブギウギ�が風靡《ふうび》したので、笠置シヅ子は敗戦後の進駐軍文化とともに誕生したと思っている人が多いようだが、たとえば�ラッパと娘�も�ホットチャイナ�も�センチメンタルダイナ�も、昭和十年代前半の松竹楽劇団の舞台で彼女が歌っていた曲だ。
デビューは昭和三年だそうで、松竹少女歌劇は当時東京と大阪と二派に分かれていたが、ターキーだのオリエ津坂《つさか》だので人気のあった東京勢より、実力では大阪勢といわれたほうのスタアの一人だったのだから、古いのである。
はじめの名前が三笠静子。昭和十年に大正天皇の四番目の皇子が三笠宮の称号を受けたので、畏《おそ》れ多いというので改名して笠置シヅ子。これは他動的のものではなくて自分から変えたのだそうだ。
 敗戦のときに私は十六歳だから、戦前の笠置シヅ子は知らないだろうというのは素人《しろうと》考えで、小学校の下級生のころからその名は知っていた。情報網のうすいその当時、東京牛込の子供が、遠い盛り場のレビューガールをなぜ知っていたか。
F・アステアとG・ロジャースのダンス映画やレビュー映画を観《み》ていて、私はいっぱしのレビュー少年だったし、同級生の中にすくなくとも三人、今赤羽の辺で健在らしいが稲沢のキンちゃん、東大医学部を出たはずの田辺忠郎、週刊明星の集英社で部長だかになっている日置智久、この三人は有楽町や浅草のレビュー劇場にしたたかな眼《め》を配っていた。一級下には当時から清水金一に心酔していた逗子とんぼが居たのだから怖い。
私はこの三人の中の誰かから昭和十二年結成のアキレタボーイズや、十三年結成の松竹楽劇団のことをきいて、胸をときめかしていた。
松竹楽劇団というのは、戦時体制になったため短命だったが、戦後の帝都座ショーとともに、今、活字の上でほとんど無視されているので、少し記す。少女歌劇(の古手を活用して)を脱皮した男女混成のレビュー劇団で、戦争がなければ東宝系の日劇NDTと並んで、二大勢力になるはずのものだった。私が知るかぎり瀬川昌久氏の�ジャズで踊って�という本でくわしく記されているのが、唯一《ゆいいつ》の文献だと思う。
本拠が帝劇なので、小学生の身では高価だし場ちがいの感じで、一人では行けない。連れて行ってくれる人も居ない。怖い盛り場の浅草のほうにはまもなく一人で行きだすが、上等な盛り場の有楽町のほうにはなかなか行けなかった。
メンバーは、かなり出入りがあったが春野八重子、笠置シヅ子、この二人が唄のほうの芯《しん》で、長門美千代、石上都、天草美登利という少女歌劇でも大人のムードを持った人たちが踊り手の上置き。男性の踊り手がタップの中川三郎、稲葉実、バレエからルンバまで踊る荒木陽(ああ、三人とも貴重なレビュータレントだった)。二世歌手の宮川はるみ、少女タップのミミー宮島、ターキーの踊りのほうの相手役小倉みね子、荒川おとめをリーダーにするヤンチャガールズ(雲井みね子、志摩佐代子、波多美喜子)。菊池武、青木祥男、紫水清という男性歌手陣、若き飛鳥亮や佐伯譲、あの木戸新太郎もダンサーとして居た(瀬川氏の著書があるので忘れていた人の名も書けるのだが)。音楽が初期の紙恭輔《かみきようすけ》から服部良一、作者が益田|次郎冠者《じろうかじや》(太郎冠者の息子)、大町竜夫。製作が大谷家の息・大谷博。
私がやっと観にいけたのは、縮小されて映画館のアトラクションなどやりだしたころで、すでに前記のスタア連はかなり脱《ぬ》けていたが、それでも充分満足した。春野八重子、笠置シヅ子、この二人は健在で、名物になっていた二人がブルースとスイングで掛け合いをするナンバーも観ている。私は古本屋でダンス雑誌をあさっては、観にいかれなかったころの松竹楽劇団の記事をくりかえし読んでいた。
春野八重子が映画�舞踏会の手帖《てちよう》�のマリー・ベルの衣裳《いしよう》で、七人の男性歌手と次々に歌い踊るナンバーなど、観ていないのに観たようなつもりになっている。
しかしなんといっても抜群だったのは笠置シヅ子で、服部良一という名伯楽が居て(彼の昭和十年代の仕事は、淡谷《あわや》のり子とのブルース調のものをのぞいて、ほとんどこの劇団でやったのだ)そのスイング感、明るさ、哀調、子供の私が眼を見張ったものだ。大人たちは、日本ではじめての、本物のスイング歌手が出たといったが、貧しいレビュー風土から突然どうしてこんな天才が出てきたのだろうと思った。私にとって、想いをこがしたといっても、天才に対する空恐ろしいような畏敬の念に近かった。
実際、昭和十五年吹き込みの�ラッパと娘�を今きいても、(斎藤広義のトランペットだ)空恐ろしい感じが蘇《よみがえ》ってくる。曲もいいが、名唱だ。
 日米戦争の開幕直前に楽劇団は解散、ダンスホール休止もあって、ジャズミュージシャンもレビュータレントも、生きにくい時代を迎える。
しかし歌手の中で、ベティ稲田などの二世歌手たちをのぞくと、いちばん被害を受けたのは笠置シヅ子であろう。淡谷のり子はまだレコードのヒット曲を持っていて、全国的にネームバリューがあった。笠置はステージ歌手で、都会の一部にしか知名度がない。しかも唯一《ゆいいつ》といっていいくらいのホットジャズのフィーリングを身につけた歌手で、戦時体制と合うわけがない。
テイチクで編曲をしていたジャズトロンボーンの中沢寿士と組んで、笠置シヅ子とその楽団でアトラクションを廻《まわ》ったが、南方民謡でごまかすくらいしか手がない。アメリカの唄は全面禁止、日本人の作曲でもジャズ的なものは駄目《だめ》。
民謡やセミクラシックを歌っても、ジャズっぽいというので叩《たた》かれる。たしか都心部では出演禁止になっていた時期があるはずだ。しかし、地方では受けない。
私は中学生で工場動員されていたが、この時期、滝野川万才館や八王子松竹座などまで追っかけて、林長次郎一座(長二郎の長谷川一夫ではむろんない)などというドサ廻りの小一座と一緒に出ている笠置シヅ子とその楽団を、万感の想いで観ていた。
それで、�東京ブギウギ�である。
敗戦の年の十一月、日劇が復活して、ハイライトショー�ファインロマンス�で蓋《ふた》をあけた。これに轟夕起子、高峰秀子、灰田勝彦、岸井明たちと笠置シヅ子が大きな名前で出ていて、ほう、と思った。観に行ったが、記憶がいりまじっていて、トランペットの後藤博(これも破滅型天才だった)がからんだ�ラッパと娘�がこのときだったか。
しかし、私の笠置シヅ子への思いいれは、セントルイスブルースやラ・ボンバ、ラッパと娘、ホットチャイナ、センチメンタルダイナ、アイレ可愛や、戦後のコテカチータ、セコハン娘、東京ブギウギ、——ここまでである。
これ以降は、メジャーになったためのやむをえぬ条件だったろうけれど、和製ブギで売った彼女の一面の個性だけが固定されて売られ、人気と反比例して急速に苦しげなものになっていった。だから笠置シヅ子というと、東京ブギ以降の大スター時代を記すべきであろうけれど、私はそうしたくない。妙なことに、珍重すべき歌手だったころは特定の場所に行かなければ聴けず、いささか閉口となったら、至るところで彼女の唄声が耳に飛びこんできた。
まだまだ底も広がりもあった歌手なのに、たとえば�アイレ可愛や�の健康で素朴《そぼく》な情感や、中米物、リズムエンドブルース、さまざまな方向に深く広がる可能性のあった大歌手だと思う。
彼女が歌わなくなったのは、はっきりした資料が手元にないが、昭和三十年代前半だったか。歌わなくなったら、ただの大阪ふう喜劇おばさんになって、いっさい唄と関係を切った。なつメロ番組にも出てこない。レコードも(リバイバルすらも)出さない。これをもってしても彼女自身、盛りのころの自分を、世間の評価と関係なく、どんなに大切に思っていたかがわかる。
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