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死体検死医02

时间: 2020-04-14    进入日语论坛
核心提示:2 いのち母性というものを、こんなに痛感した事件はない。二十七歳になる女性が、妻子ある上司と不倫の関係になった。妊娠した
(单词翻译:双击或拖选)
2 いのち

母性というものを、こんなに痛感した事件はない。
二十七歳になる女性が、妻子ある上司と不倫の関係になった。妊娠したが男から中絶するように説得され、仕方なく手術した。
よくある話だが、その経過から男の打算が見え隠れする。
男は妻子と別れ、君と結婚すると口ではいうが、そう簡単なことではない。男の甘い言葉は、単に性的関係を続けたいがための詭《き》弁《べん》が多いものだが、そんなことなど知る由もなく信じて女は、中絶をくりかえしていた。
女の思慕と男の思考には大きな違いがあり、第三者ならばすぐに気が付くのだが、当事者である彼女にはわからない。そんなところに、男女のもつれの原因が潜んでいることが多い。
そのうちに、妻にも二人の関係がわかってしまった。
トラブルは家庭裁判所で調停することになったが、お互いのいい分に隔たりがあって、折り合いがつかなかった。
結婚の約束を破ったうえ、二度にわたる妊娠中絶。彼女は慰謝料一千万円と主張した。裁判所は六百万円を提示した。それにひきかえ男は、三十万円という低い金額でことを終わらせようとしたのである。
その騒動のさなか、彼女は男の妻から、
「あなたは生きている子を、平気で腹から出すような女だ」
とののしられたのである。
この事件が報道され、その言葉を耳にしたとき、私の心にも衝撃が走った。
私は男だから、子供は生めないが、母性本能がどんなものか、わかったような気がした。
女に向かって、決していってはならない言葉だと思えたからである。男が女に対しても、いってはならない言葉だし、ましてや女同士、本妻が愛人に向かっていうべき言葉ではない。
彼女はこの言葉に、許し難い屈辱を感じたのであろう。
殺意というものは、このようにプライドを著しく傷つけられたようなときに、突如として生ずるものである。
二度も子を中絶しなければならなかった女の辛《つら》さ、悲しさを上司夫婦にわからせてやる。彼女はそう考えて、上司夫婦の子供を殺害しようと計画した。
復《ふく》讐《しゆう》である。
ある朝早く、いつものように妻は出勤する夫を、郊外の団地から最《も》寄《よ》りの駅まで車で送って行った。
夫婦がでかけた後、彼女は合《あい》鍵《かぎ》をつかって部屋に入り、ポリタンクに用意したガソリンを寝ている子供のまわりにまいて、火をつけた。
すさまじい事件であった。
この事件は、上司の子供を焼死させてはいるが、子供に対する殺意ではなく、また自分を欺いた男への報復でもない。本妻が彼女に対してあびせかけた「生きている子を、平気で腹から出すような女だ」との侮《ぶ》蔑《べつ》に触発された復讐ではなかったか。私はそう感じた。
 命の尊さを、今なお鮮明に思い出させる私の父の言葉がある。
この本を読んでごらんと、私は父から一冊の本を渡された。
『学生に与う』河合栄治郎著。書名からみて、なんとなくむずかしそうな本であった。
昭和二十年三月。私が旧制中学四年生のときのことである。
当時、日本は第二次世界大戦中で、食糧はむろんのこと、あらゆる物資は欠乏し、東京をはじめ主要都市は、アメリカの空襲を受け、敗戦の色が濃かった。
父は北海道の無医村地区で開業していたので、私は小学校を卒業すると東京に出て下宿生活をしながら、中学へ通っていた。
三年になったとき、戦争は熾《し》烈《れつ》となり、授業をするどころではなく、学徒動員で軍需工場で工員として武器などの生産に従事していた。
中学は五年制であったが、当時は四年でくり上げられ卒業した。
あと一か月で卒業というとき、東京の空襲は一段と激しくなり、命の危険を感じた両親は、私を北海道へ連れ戻してしまった。
そのころの田舎町には、本屋などはなかった。父は東京の書店に注文して、読みたい本を取り寄せていた。
父の書斎はいつも書物であふれていた。『学生に与う』はその中の一冊であった。
当時、若者は兵として戦地に赴くか、軍需工場で働くか、いずれにせよ国のために命を投げ出さざるを得なかった。
それなりの覚悟はできていたし、そうすることが男の義務であり、勝利への道であると信じていた。
ところが、その本には個人主義、自由思想が書かれていて、何のことか私にはよくわからない。ずいぶん身勝手な考えもあるものだ、ぐらいにしか思わなかった。
読み終えた後、私は父と議論になった。
意見はかみ合わなかったが、最後に父は、
「命がなければ、すべてはない。命の限り生きて、やるべきことをすべきである。
国のために殉ずる、それも一つの生き方には違いないが、自由という個人の考えを尊重する思想もある。戦争で短い命を終えるならば、せめてこのような考えの人々や国があることを、おまえも知っておくべきだ」
と、私に告げた。
親であり、医者であった父は、息子にかけがえのない命の尊さを、わからせたかったのであろう。
親の愛が切々と伝わって、私は涙を流しながら話を聞いた。
それから十年、戦争は終わり私は医者になっていた。
医者だから病人の治療をするのは当然というが、漠然とした気持ちでは患者の前に立てない。医師としての使命感とか、それなりの哲学を持っていないと、この仕事はつとまらないと思った。
そこで、人間にとって死ぬということはどういうことなのか、もう一度考え直して見よう。そうすれば、命の尊さ、いかに生きるべきかがわかってくる。その上で患者に接すれば自分なりに、自信をもって仕事に専念できるだろうと考えて、死の学問である法医学を二、三年やってみようと、専攻したのである。
ところがやってみると、これがなかなかおもしろい。そのうちにのめり込んでしまい、臨床医に戻る気はなくなり、この道一筋に歩んできてしまった。
ものいわずして死んでいった人々の人権を擁護する、死者の立場に立った法医学の魅力に取りつかれてしまったからである。
自分を完全燃焼させて、選んだ道を懸命に生きてきた。
今日の自分があるのは、『学生に与う』という一冊の本と、命の尊さを教えてくれた父の影響が大きい。
 その昔、法定伝染病として恐れられたジフテリアという病気があった。小児に多い病気で、感染すると咽《いん》頭《とう》で菌が増殖し、そこに潰《かい》瘍《よう》ができ、その上に灰白色の偽膜が発生して、呼吸困難になると同時に、神経毒を産出して心筋障害、腎《じん》臓《ぞう》障害を生じ、死亡率は高かった。
治療法として、毒素を中和する血清療法が開発され、これを注射すると病気は、ドラマチックに治っていった。しかし、健康保険のない時代であったから、金のない人は治療を受けられなかった。医者を訪れ、なんとかしてくださいとお願いしても、高い薬価の支払い能力のないものは、注射をしてもらえない。重症の子を抱えて母はうろたえ、なすすべもなく、子の臨終を迎えねばならなかった。
「そんな医者にはなってはならんぞ」と医者である父から聞かされた話であるが、私は子供心に痛いほど、その母子の気持ちがわかった。
人は金があるか、ないかではない。人は人なのだという父の言葉が、心に強くインプットされた。
私たちは今、よき時代に生まれ、豊かに暮らしているが、ときにはその幸せに感謝し、命の尊さを考え直してみたい。
父は逝《い》って二十年になるが、私の心の中で脈々と生き続けている。
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