> 死体検死医04_作品合集_日本名家名篇_日语阅读_日语学习网
返回首页
当前位置: 首页 »日语阅读 » 日本名家名篇 » 作品合集 » 正文

死体検死医04

时间: 2020-04-14    进入日语论坛
核心提示:4 決め手に欠ける法医学古来から人間の集団生活の中にはそれなりの掟《おきて》、約束ごとがあり、トラブルが起きればボスはこ
(单词翻译:双击或拖选)
4 決め手に欠ける法医学

古来から人間の集団生活の中にはそれなりの掟《おきて》、約束ごとがあり、トラブルが起きればボスはこれを上手に裁いてきた。
両方を納得させる知恵の一つとして、法医学などが発展してきたのだろう。
江戸時代の大岡越前守《えちぜんのかみ》は、母を主張する二人の女に、幼児の手を双方から引かせ、引き勝ったほうを母と認めようと、引っ張らせた。
子は痛いと泣き出した。泣く子を見かねて、一人の女は子の手を離した。引き勝った女の胸に子は抱きかかえられたが、越前守は手を離した女こそ、愛のある本当の母親であると裁決した。
科学的決め手がなかったから、その時代の人情やモラルに訴えた、見事な裁きであった。
本当の母子であったかどうかは別として、フランスでもその昔、私生児が生まれると、母なる女が父親を決める権利があったという。
女は関係のあった何人かの男の中から、経済的にもっともゆとりのある男を、父親に選んだ。金持ちのプレイボーイ達は、何人もの子供の父親にさせられ困り果てて、医者のところへ何とかならないかと相談をもちかけたのが、血液型の研究につながったといわれている。
それはともかく、今から見れば無茶な話だが、いずれにせよ当時は、それ以上の解決策はなかったのだから、それで納得せざるを得なかった。
 昭和二十四年八月六日の深夜。青森県弘《ひろ》前《さき》市で大学教授夫人が、夫の不在中何者かに首を刺されて死亡するという事件が起こった。
ちょうどその一か月前の六日に、東京では下山事件(初代国鉄総裁轢《れき》断《だん》事件)があって、総裁の死をめぐり自殺か他殺かと、日本中は大騒ぎになっていたから、この事件などはそのかげにかくれて、知るものは少なかった。
八月下旬、容疑者のN男(当時二十五歳)が逮捕された。
血のついた旧日本海軍の白い開襟シャツと、白いズック靴が証拠になった。
シャツは犯行前から逮捕されるまで本人が着ていたものである。ズック靴は犯行後のある日、雨が降り出したので、友人宅で傘とゲタを借りた際、あずけてきたという、その友人宅から押収されたものであった。
司法解剖時の検査により、シャツの血液型はB・M型で、被害者の夫人と同型であったが、ズック靴の血《けつ》痕《こん》は血液ではないことが判明した。
ABO式血液型はポピュラーだから、説明の必要はないと思うが、それ以外に人間には四十数種類の血液型が解明されている。
MN式血液型はウサギ、P式血液型は馬、Q式は豚、E式はウナギ、Rh式血液型はアカゲザルなどをつかって、人間の血液型を分類したものである。
輸血の際にはABO型とRh型を適合させれば、その他の型を合わせる必要はない。なぜならば、AB型の人は何型の人の血液でも輸血してもらえる。それは血清中に凝集素がないから、A凝集原をもつA型血液を輸血しても、血液はかたまらない。これと同じでABO式血液型以外の血液型は、凝集素がないタイプなので、輸血の際に型を合わせる必要はない。
ところが法医学では何種類もの血液型を調べて、個人を識別しているのである。
ABO式血液型B、MN式血液型Mの人をB・M型と表現する。MN式はMN・M・N型の三つに分けられるので、B・M型とB・N型の人は同じB型でも別人である。
 結局、凶器は発見されず、当夜のアリバイもはっきりしないまま、N男は否認したが殺人罪で起訴された。
シャツの血は、自分の血であると主張したが、N男も被害者の夫人と同じB・M型であったので、真偽のほどはさらなる鑑定を待たねばならなかった。
それ以外に物証はなく、殺人の動機もはっきりしなかったが、当時N男は職もなく、ぶらぶらしていて、ノゾキなど変質的行動をしていたので、印象は悪く容疑を晴らすことはできなかった。
血液型のくわしい鑑定がS大学の法医学教室に依頼された。
結果は、
被害者(夫人)の血液 B・M・Q型
シャツの血痕     B・M・Q型
容疑者N男の血液   B・M・q型
であった。
ABO式はともにB型、MN式もともにM型で一致していたが、三種類目のQ式血液型は、夫人とN男の着ていた白いシャツは、ラージキューで同型であったが、N男の血液はスモールキューで、血液型が違うのである。
つまり自分の血がついたという、N男の主張は否定された。
当時は旧刑事訴訟法(自供説)が改正され、物証説になったばかりであった。
それから二年後の昭和二十六年、裁判官は被害者の血液型と加害者着用のシャツに付着していた血痕の血液型が、同じであったという法医学的鑑定のみで、真犯人を断定することはできないとして、N男を無罪にした。
検察側は控訴した。
再度、血液型は別の権威あるT大学で鑑定されることになった。
被害者(夫人)の血液 B・M・Q・E型
シャツの血痕     B・M・Q・E型
容疑者N男の血液   B・M・q・E型
四種類の血液型検査を試みたが、夫人とN男の着ていたシャツの血痕は一致していた。自分の血がシャツについたというN男の主張は、嘘《うそ》であることが明白になり、殺害の容疑はますます濃厚になっていった。
しかし、被害者である夫人の血液が、容疑者N男のシャツに付着したと断定するのは納得できない。なぜならば、他の理由で被害者以外のB・M・Q・E型の人の血が付着する可能性も考えられるのではないかと、N男側の弁護士は反論した。
 あの有名な国鉄下山総裁轢《れき》断《だん》事件(昭和二十四年七月)も同じような経過をたどっていた。
常《じよう》磐《ばん》線綾瀬駅近くで、深夜どしゃぶりの雨の中、総裁は轢断死体となって発見された。
T大学の法医学教室で、司法解剖が行われた。
結果は轢断部に生活反応がないという理由で、死後の轢断と判定された。つまり殺害後、飛び込み自殺のように偽装された殺人事件ということになったのである。
日本中は大騒ぎとなった。
死亡直前の下山総裁の足取りや、当時の社会情勢(過剰な鉄道員の大量解雇)などから、殺人の可能性は十分考えられた。しかし、別の見方をすれば大量解雇に悩み苦しんでいた総裁には、自殺という可能性も否定できない。
K大学の法医学者らは反論を唱えた。
とくに飛び込み自殺のような場合には、ほぼ即死状態だから、轢断部に生活反応は現れにくいので、これがないからといって直ちに死後の轢断と判断するのは早計である。自殺の可能性も考えられると、主張した。
聞きなれない生活反応という法医学用語が、マスメディアに登場し、日本中は自殺か他殺か、論争の行方《ゆくえ》を固《かた》唾《ず》を呑んで見守っていた。
これとは別に、法医学的争点の一つに現場の血痕が問題になっていた。
事件があって数日後の深夜、警視庁の捜査一課と鑑識課は、現場の広い範囲にわたってルミノール反応を実施した。血痕を探すためである。液体試薬を噴霧し、それが血痕にふりかかると蛍光を発するのだ。その部分をチェックすると、線路脇《わき》にある鉄道小屋から始まり、下り方向のカーブした軌道内、そして総裁の遺体まで、点々と二三〇メートルにわたりルミノール反応が陽性に出た。
これらの血《けつ》痕《こん》を集め、それぞれについて三種類の血液型を検査すると小屋、軌道内、総裁はいずれもA・M・Q型であった。
司法解剖したT大学のドクターらは、このデータを次のように分析した。
鉄道小屋で刃物などで殺害された総裁の血のしたたる遺体は、二三〇メートルにわたって軌道内を搬送されレールの上に放置された。その後列車に轢過させ、刺創や切《せつ》創《そう》などを挫《ざ》滅《めつ》轢過して、わからないようにした。つまり、飛び込み自殺に見せかけた巧妙な殺人事件であると考えたのである。
ところが、この三か所の血痕をすべて総裁のものと考えて、矛盾はないのかとK大学のドクターらは、ここでも疑問を投げかけた。
下山総裁は自殺か、他殺か。この大騒ぎのかげにかくれた教授夫人殺し事件も、裁判が進むにつれて、法医学的論争が表面化し、マスメディアの注目されるところとなって、大きく報道されはじめた。
 N男の白いシャツに付着していたB・M・Q・Eの血痕を夫人の血液として断定できるのか、別人の可能性を完全に否定することができるのか。
注目された裁判に証人として出廷した、T大学の教授の証言は、確信に満ちていた。
日本人の中でB・M・Q・E型の人は一・五パーセントいる。弘前市の人口は六万人であるからB・M・Q・E型の人は九百人いることになる。
また刺殺した場合、犯人の着衣に返り血がかかる可能性は九八・五パーセントである。しかもシャツの血痕は動脈血が飛《ひ》沫《まつ》したものであるから、九百名の同型者がいたとしても、動脈が切れていなければ、問題にはならないと証言したのである。事実、当夜、動脈を切って医療を受けた患者は、弘前市内にはいなかった。
世界的権威による血液型の鑑定と統計学的考察の説得力に、裁判の流れは変わった。
結局高裁は、この鑑定を全面的に採用し、懲役十五年の判決を下したのである。
ところがN男は、あくまでも無罪を主張し、昭和二十八年に最高裁に上告した。しかし棄却され、刑は確定してしまった。
 一方、下山事件も決め手を欠いたまま推移していた。
それによれば、小屋は鉄道員が作業中にケガをしたための血痕。軌道内は列車の乗客が水洗便所から流した血液。総裁も偶然同じA・M・Q型であったと考えることもできるので、これを総裁一人に絞り込み、点と点を結び線として、他殺と断定するのは危険な結論である。自殺の可能性を否定することはできないと、K大学はT大学の考え方に反論したのである。
しかし、議論はことごとく噛《か》み合わず、水かけ論となって混迷した。
その他、自殺の状況、他殺の要因などが交錯し、論争は続いたが、双方に決定打がないまま連合軍総司令部の要請により、自殺として事件は打ち切られてしまった。
当時日本は、第二次大戦の敗戦により、連合国の占領下にあったから、やむをえない結末であった。
 獄中のN男は模範囚であったため、三年目に仮釈放の手続きがとられたが、改心の情がないとのことで再三延期され、五年目の昭和三十三年にやっと仮釈放となった。
ところが昭和四十六年、宮城刑務所を仮出所したM吉という男が、この大学教授夫人殺しは、自分がやったと名のり出たのである。
事件当時、M吉は十九歳であった。昭和四十六年は、事件発生から二十二年も経っていた。M吉は窃盗、強盗致傷、婦女暴行などで数回刑務所を出入りしており、夫人殺しがあったとき、M吉もまた別件の傷害事件で、N男と同じ警察の留置場に入れられていたというのである。
M吉はN男より六つ年下で、家も近く子供のころから顔見知りであった。
M吉は、なぜN男がこの事件の容疑者として逮捕されたのか、わからなかったが、自分の犯行とわかれば、死刑になると思って、留置場に差し入れられた弁当の残飯の中に、アリバイをたのむ手紙を入れて、ごまかすことができたというのである。
しかし、悪いことはできないもので、N男の弁護士が、M吉の国選弁護人になっていた。二つの事件を調べるうちに、この弁護士は、大学教授夫人殺しの犯人はM吉であることを知った。裁判所に、この件を調べなおしてほしいと、上申書を提出した。
これは弁護士として、やってはいけない行為であった。しかし、年老いた弁護士は、これが最後の仕事だからと、覚悟を決めて上申したのである。
ところが、この上申書は無視されN男の刑は前述のように、確定したのである。
その後、老弁護士は、逆転勝利の日を知ることなく死亡してしまった。
M吉はいろいろな罪で服役中、更正の道を考えるようになっていた。
そして仮出所した昭和四十六年、弁護士と相談して、時効の成立を確認した上で、真犯人として名のり出たのである。
殺人事件の時効は十五年であるから、二十二年も経った当時、時効はとうに成立していた。
警察も刑に服したN男がいるので、これを無視するわけにもいかず、M吉の自白の真偽を再調査することになった。
当時十九歳のM吉は、日に四十〜五十本ものヒロポンを注射するほどのひどい中毒になっていた。薬がきれると眠れずに、夜など街を徘《はい》徊《かい》し、悪事を働いていた。そんなある日、以前ミシンの修理に行ったことのある大学教授の家に、若い女性二人がいることを思いだし、いたずらをしようと家の中を覗《のぞ》くと、カヤの中で女性が寝ていた。足元のほうから忍び込んでからだに触ったら、騒いだので右手にもっていた刃物で首の真中付近を夢中で刺した。刃物を握っている右手に血がふきかかったが、それ以外に返り血は浴びなかったと語っている。
また逃げる途中、古井戸で手を洗い、刃物を処分しようとしたことなど、細かい話を供述した。しかし高裁は、昭和四十九年、M吉の供述に信《しん》憑《ぴよう》性《せい》はないと、再審請求を棄却した。
ところが昭和五十一年、執《しつ》拗《よう》な弁護士の主張により、再審の開始が認められた。
M吉の供述は、古井戸の存在や犯人にしかわからないような細かいことを知っていることなどから、信憑性があると判断された。さらにN男が犯人とされた決め手になった、白いシャツの血痕に大いなる疑問が投げかけられたのである。つまりN男が返り血を浴びた白いシャツを、逮捕されるまで平然と着ていたなど、常識では考えられないこと。また寝ている夫人の右側の足元から、胴体のところまで忍び寄り、からだに触ったところ騒がれたので、右手に握っていたナイフをふりかざして、首を刺した。頸《けい》動《どう》脈《みやく》を切ったので血は、寝ている夫人の首から頭の方向にふき出したわけだから、供述どおりナイフを握った右手に血はふきつけたであろうが、シャツに返り血は浴びなかったと主張するように、夫人の首から下方に位置したN男の上半身のシャツに、返り血がとび散り付着するのは不自然である。さらに白いシャツが押収されたとき、灰色にくすんだシミと記載されているが、鑑定時には赤色血痕と記録されている。
これらの疑問点が解明されない以上、その血痕を九八・五パーセントの確率をもって、夫人の返り血とすることはできないと、裁判官も判断した。お互いに立位で格闘中に頸動脈が切れれば、高い確率で返り血を浴びるであろうが、寝ているケースでは話は別である。
一審では有罪の決め手になった白いシャツの血痕を、高裁は証拠とはならないと判断したのである。
また白のズック靴であるが、雨の日友人宅に立ち寄り、傘とゲタを借りた際にはいていた靴をあずけたというのも、本当に血液がついていたとすれば、あまりにも不用意な行動で納得がいかない。さらにN男は、二十八年間という長い期間一度も犯行を認めたことはなく、一貫して無実を主張し続けていたこと。
逆にM吉は、名のり出てから真犯人は自分であると、不動の供述をしていた。
これらの経過から、二十八年目の昭和五十二年高裁はN男の冤《えん》罪《ざい》を認め、逆転無罪としたのである。
無罪となったN男さんは、服役中の刑事補償千四百万円、また御家族らも国家賠償法によって、当時最高額といわれた一億円にものぼる賠償請求を提出した。
一方、真犯人とされたM吉は、時効が成立していたのである。
帰らぬ無実の二十八年間、N男さんの一生とは、いったいなんであったのだろうか。
今、これらの事件をふりかえれば、DNA鑑定などにより、血痕は同一人か否か簡単にケリはつく。その時代には、このような検査方法がなかったためのトラブルである。
決め手に欠ける法医学に、歯《は》痒《がゆ》さを感ずる。
この事件に限らず、往時は大岡越前守と同様に、法医学者も裁判官もそれなりの努力をし、最善の結論を下しているのである。
時代の推移とともに、社会は変遷し、学問も進展していくから、現代の感性で過去をとらえ、批判することは容易であっても、それは必ずしも正しいことではないのかもしれない。とはいえ、犠牲になった当事者がいることも事実である。
裁きのむずかしさを痛感する。
いずれにせよ、法医学の判断は死者の生前の人権を擁護し、社会秩序の維持に直結していることを思うと、日々の研《けん》鑽《さん》をないがしろにすることはできない。
轻松学日语,快乐背单词(免费在线日语单词学习)---点击进入
顶一下
(0)
0%
踩一下
(0)
0%

[查看全部]  相关评论