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死体検死医08

时间: 2020-04-14    进入日语论坛
核心提示:8 安楽死私が東京都の監察医をしていたころ、都立病院のドクター達は看護学校の講義を担当していたが、病院には解剖学を教えら
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8 安楽死

私が東京都の監察医をしていたころ、都立病院のドクター達は看護学校の講義を担当していたが、病院には解剖学を教えられるドクターは少ない。学校側は講師を探すのに苦労していた。
そんなことから、毎日変死体の検死、解剖をしている監察医に講義を担当してもらえないかという話になった。
医者になって十四年目、大学で法医学の講義はしていたが、解剖学の講義はしたことがない。専門分野が違うので尻《しり》ごみしたが、助けてほしいといわれて出向いたのが始まりである。
現役をリタイヤした今も、その講義は続きかれこれ三十年になる。
解剖学は地理と同じで、ここが北海道でここが本州、四国、九州だよと説明しているだけだから、学生は寝てしまう。眠ってしまっては講義は成り立たない。
そこで私は、骨の項では白骨事件、循環器の項では刺傷事件、呼吸器の項では首《くび》吊《つ》り事件、肝臓の項では慢性アルコール中毒の話、神経系の項では老人の自殺の統計など、自分が体験した事例や研究データをスライドに映写して話をすすめる。もう寝ている学生はいない。びっくりしてスライドを見ている間に解剖学の講義をする。
 そんなある日、大学病院で事件が起きた。
平成三年四月、入院中の末期癌《がん》患者に、主治医が家族から懇請されて、塩化カリウムを注射し死亡させたというのである。安楽死事件であった。
翌平成四年七月、医師は殺人罪で起訴された。
安楽死をめぐって、医師の刑事責任が問われたのである。
従来、安楽死は自宅で回復の見込みがなく、痛み苦しむ家族に対し、身内のものが見るに見かねての行動がほとんどであった。しかし、今回のケースは病院の中で、医師と看護婦が医療チームをつくって対応しているまっただなかで起きたのである。
他人ごとではなく、ショックは医療人である私達を直撃した。
起訴に至った背景には、昭和三十七年名古屋高裁での安楽死に対する判決が、深くかかわっていた。それは安楽死が法的に認められる場合の条件を、具体的に明示していたからである。
脳《のう》溢《いつ》血《けつ》で倒れ、激痛から「殺してくれ」と訴える父親に、殺虫剤を入れた牛乳を飲ませて死亡させた息子が、殺人罪に問われた裁判で、昭和三十七年十二月名古屋高裁は、安楽死が罪にならないケースとして、許容の六条件を明示したのである。
一、不治の病で、死期が目前に迫っている
二、患者の苦痛が見るに忍びない
三、苦痛の緩和を目的とする
四、患者本人の嘱託、承諾がある
五、原則として医師の手による
六、方法が倫理的に妥当である
しかし、この事件では五と六の条件に欠け、医師の手によらず、また死亡させる方法が殺虫剤という毒物で、安楽死の概念から逸脱しているとされ、嘱託殺人罪が適用され、懲役一年、執行猶予三年となった。
しかし、この六条件が満たされるならば、安楽死は容認されるというものである。
なるほどとうなずけそうなのだが、医師という立場で私なりに考えれば、五つ目の原則として医師の手によるというのは、納得がいかない。
安楽死をなぜ医師がやるのかを、法律家にいやそればかりでなく国民全体に問いただすべきではなかったかと思うのである。
医師の使命は、命をサポートすることで、死への案内人ではないのである。この事件が起こったとき、医師達は何の反応も示さなかった。
そんな議論がないまま、ついに事件が病院の中で、医師の手によって発生してしまったのである。
医療人である我々が、安楽死に直面する場合、必ずしも治療の側に立っているとは限らない。自分自身が患者であることもあるであろうし、また家族の一員である場合もあり得るのである。これら三様の立場に立って、安楽死を見つめ考え直すことは、医療人にとってきわめて大切なことである。
生を支える医学であるが、生あるもの死は必然であり、死を見とどけるのも医療人の役割である。
しかし、自らの手によって死を与える安楽死の問題が提示されたとき医学、法律、倫理、宗教を含め、人道的にどう対応するべきか、とまどいを感ずるのも事実であろう。
われわれ医療人は、この問題を評論するのではなく、評論される立場にあることを自覚し、自分自身の問題として考え方をまとめるよう、看護学生の夏休みの宿題にし、レポートで書いてもらった。
大学病院の安楽死事件について、自分なりに判決文を書くつもりで、まとめるようにと指示した。
担当医師が殺人罪で起訴された時期であったから、学生達は新聞や週刊誌などを読み返し、知識の収集につとめた。
東京都立公衆衛生看護専門学校(二年課程)の一年生百二名のレポートは、すばらしいものであった。
すぐ月刊誌「看護教育」(医学書院、三十四巻、二号、一九九三年)に投稿した。
要約すると、安楽死に賛成するもの七十五名、反対十名、わからない十七名で、圧倒的に賛成が多かった。
しかし、末期医療のあり方を検討するべきであるとの意見もあり、また安楽死許容の六条件は三十年以上前に示されたもので、現代の医療に必ずしもマッチしたものではないから、見直すべきであるとの意見もあった。
安楽死に反対する十名(一割)の意見は、わが国ではまだ脳死や尊厳死も容認されていないので、この状況下で医療の中での安楽死が認められれば、水が低きに流れるごとく、悪用される恐れがあると警戒していた。
難しい問題で結論を出しかねるとするもの十七名があり、考えれば考えるほど結論を出しにくい問題でもあった。
脳死を人の死と認めるべきか否かを決めかねているのと同じように、安楽死も医療人の立場、家族の立場で考えると、それぞれに違った意見になって、統一見解は出しにくく、自己矛盾に陥りやすい。
次に有罪か無罪かの質問には、医師は有罪としたもの七名があった。これはいかに安楽死が合法的であったにせよ、医療人としてやってはいけない行為であるとの理念に基づいている。
医師無罪とするものは三十五名で、有罪の七名を大きく上回り、医師に同情的意見が多かった。
さらに医師を有罪にするならば、安楽死を執《しつ》拗《よう》に懇請した家族も有罪とするものが六十二名と、圧倒的多数を占めた。家族の懇請がなかったならば、この事件は起こらなかったと、家族の態度を批判している。その中で一人だけ、安楽死は医療側の責任ではなく、これを懇請した家族側に問題があるので、家族側のみ有罪であるとの意見があった。
また組織だった大病院で起きたケースを、一人の医師だけに責任をおしつけるのは、不合理で、全体責任と考えるべきであるとするもの十五名がいた。
いずれにせよ、各自が安楽死について考え、まとめたレポートには看護学生としての哲学があり、どのレポートもすばらしいものであった。
三学生の意見を紹介しよう。
 A子のレポート
今回の事件について、終末期に医療や看護ケアが、患者や家族に正しく行われていれば、医師は大学病院でこのような悲しい事件を起こさずにすんでいたかもしれない。終末期にある患者に対しての懸命な医療は、患者やその家族の苦痛を助長させるだけである。
末期癌患者には、除痛のコントロールを正しく行い、穏やかに死を迎えられるよう、精神的な援助を行うことにより、死にゆく人は、最後まで人間らしく生を全うすることができる。
家族も愛する身内の死に対して、永遠に別れることは悲しくつらいことであるが、恐ろしい病と戦いながらも激痛のため精神状態が危機に陥ることがなく最後まで安らかでいられたならば、家族も含めたターミナルケアを施されていたならば、この事件の家族の行動は、起こらなかったのではないか。
とあった。ターミナルケアのあり方、医師が受け持つ以前に良い医療、良い看護がなされていなかったために起こった事件ではないかと書いている。
 B子のレポート
人間は心身ともに疲労した状態においてパニック状態にある家族の執拗な懇請を、うまくくぐりぬけるわざを持ち合わせているものだろうか。機械的な対応に優れた医師ならば、可能であるかもしれないが、人間的であればあるほど、困惑し、このような行為に至ってしまったのではないだろうか。
また医師を取りまく環境にも、問題はなかったのだろうか。治療は医療チームの協力によって成り立っている。ところが、なぜか医療チームの登場がないのが不思議である。この事件は医師の単独行動であるが、責任の所在はチーム全員あるいは、病院にもあるのではないだろうか。
と自らも医療従事者の一人として、さまざまに思いをめぐらせている。
 C男のレポート
今回の事件は全人間として生きてもらいたいと願う看護サイドの意見と、生命のある限りあらゆる手段を使ってもという医療サイドの双方の考えにギャップが生じたためと考える。
全人間として生きてという考えは、生命としてすでに生きた状態にあると判断してよいと思う。そして生命のある限りは、有限でいつか死を迎えるという考えが根底にあると思う。つまり生物体として存在するものに手だてを加えることで、無限と有限を加味した病者に対して周りのものは、いろいろと考えをめぐらせるので、答えを出そうと急ぐと落ちこぼした物が見えなくなる場合がある。納得のいく答えはさまざまの妥協点を生む。看護するものがあれはおかしいといった背景には、医療行為への意見である前に看護観に反した行為がそこに見えたからではないだろうか。
看護の概念と医学の目指す道が対立のかたちで、現れていると彼はいう。
それぞれの哲学を、熱く語ってもらった有意義な宿題であった。
安楽死euthanasiaの問題を看護学生の立場で、しかも広い視野に立って観察し、評価するのではなく、自分の問題として意見をまとめたことは非常によかった。
教室の授業だけが学問ではない。社会との関連の中に本当の学問、勉強があることを知ったのも、大きな収穫であった。
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