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死体検死医10

时间: 2020-04-14    进入日语论坛
核心提示:10 誤原病名医といわれ社会的にも信頼の厚い医師がいた。患者を診察中、そのドクターは個人的な悩みごとを思案しながら、患者の
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10 誤原病

名医といわれ社会的にも信頼の厚い医師がいた。患者を診察中、そのドクターは個人的な悩みごとを思案しながら、患者の胸に聴診器をあてまわし、苦悩に満ちた顔をしながら、一言の会話もなく、首を傾げて診察を終え、薬をくれた。
患者は、自分の病気はあの名医が苦悩し首を傾げるほど、悪い病気になっているのかと思い込み、たいした病気ではなかったものが、悪化してしまった。これは医師の不注意、無責任のために患者が精神的打撃を受けて、機能的障害を起こしたものだ。
医師は患者に対して責任の座にあり、患者を救い疾病を治すべきなのに、不注意のために逆に病気をつくっていると、一九三〇年代にアーサー・ハースト(Arthur Hurst)は医原病(Iatrogenic Disease、医師が原因で起こる病気)という言葉を用いて、世にアピールした。
医師として、これは襟を正して聞き、反省せねばならないことである。
しかし、こうなる前に患者は医師に、私の病気はどうなのかを質問するべきであったと思うし、医師もまた聞かれるまでもなく、診療を終えた時点で、病状や治療についての説明、指導をするのが当然のことだと思う。一言の対話もなしに診療を終えるから、患者側に不信、不安がつのり、医原病などと非難されるので、これは医療人としておおいに反省せねばならないことである。
双方にとって不幸な結果にならないよう、注意すべきである。
以来、医原病という言葉は、無批判に拡大使用されてきた。しかし、今日の進歩した医療体系から、医原病のいわんとする真意はわかるが、概念は整理されハーストのいうイメージとは違ったものになってきている。
これは、医師以外に重大な原因があって、器質的障害を伴うもので、道徳的要素を取り除いた医学的文明病というべきものを、医原病というべきであると考えられるようになったからである。
つまり薬の副作用的なものとか、手術後の体調不良などを薬原病、手術原病などというようになった。
それはともかく、医原病はもともと医師と患者、双方の思い違いからはじまったものである。
 検死の現場にも、これに似た思い違いを見ることが多い。
自殺の場合、のど笛を切るという言葉が昔からある。実際にはのど(前《ぜん》頸《けい》部《ぶ》)を切ったのだが、気管が切れただけで、その切り口から空気が出入りし、ヒューヒューと呼吸をして死ねず、手段を変えて屋上からとび降り自殺をしたケースがあった。
また睡眠剤による自殺の場合、錠剤を五〜六錠ずつ水と一緒に服用する。自殺するためには大量にのまなければならないので、これをくりかえす。そのうちに胃袋は水で満杯になる。ベッドに横たわって間もなく、嘔《おう》吐《と》してしまい死ねなかったというケースもあった。
ガス自殺もひところ同じような現象が見られた。
東京ではかつて都市ガスによる一酸化炭素中毒が、自殺のトップを占めていた。
当時の都市ガスは石炭ガスで、一酸化炭素が主成分であった。これを吸入すると血液中の赤血球は、酸素よりも一酸化炭素と強く結合する(酸素よりも二四〇倍も強く結合する)ので、一酸化炭素ヘモグロビン(CO‐Hb)を形成して、赤血球は酸素と結合できず、体内の組織に酸素を供給できなくなり、つまり内呼吸ができずに死亡してしまうのである。
ところが、昭和五十年代になると、都市ガスは徐々に天然ガスやプロパンガスに切り替わり、吸入しても中毒を起こすことがなくなった。このガス切り替え時期には、いろいろな事件が起こった。
台所の生ガスを放出して自殺を図ったが、なかなか死ねず、何度かくりかえしているうちに、家人に発見され未遂に終わったとか、死ねないので自殺をやめた人もいた。
ガスの成分が違うことを、知らなかったためである。
しかし、死亡したケースもある。
これは空気より重い天然ガスやプロパンガスが床面にたまり、空気が上方に押し上げられ、酸素欠乏になって死亡したもので、中毒死ではなかった。本人は知ってか知らずか、目的を果たすことができたのである。
また暗い夜など、現場に入って来た人が電気をつけると、室内に充満していたガスが、スイッチの火花に反応し爆発火災になるケースも多々あった。
自分だけの自殺はともかく、爆発火災になると多くの人々を巻き添えにすることが、社会問題にもなり、また中毒死しない成分であることもわかって、この手の自殺はなくなった。
これらの事例は、いずれも本当のことを知らなかったために起きたもので、社会的に無知原性の事件といえるかもしれない。
 他殺の場合にも、同様の思い違い事件がある。
昭和三十四年のことである。空気を注射すれば、死因がわからず完全犯罪ができるという話を聞き、男は精神障害のある姪《めい》に生命保険をかけ、約四三ミリリットルの空気を皮下に注射した。しかし姪は、めまいを訴えただけで、生命に異状はなかった。間もなく事件は発覚し、男は逮捕された。
空気を注射すれば、人は死ぬといっても、皮下注射では意味がない。その辺の分別もなく、話を信じて犯行に及ぶところが、素人の滑《こつ》稽《けい》さである。
裁判になり弁護側は、被告に殺害の意思はあったが、このような無知なやり方では人は殺せないし、実行はしたが科学的にも、社会通念上から判断しても、期待したような結果は生じないので、いわゆる不能犯といえるもので、無罪か減刑に相当すると主張した。しかし、裁判官は空気を注射して殺害しようとした行為は、殺人未遂であり不能犯でないとし、懲役五年の判決を下した。
静脈に空気を注射すれば、空気は肺循環に流入し、多量の場合はその空気のために肺は蒼《そう》白《はく》になり、左心室には血液ではなく空気が送り出されるから、左心室は空虚となって急死する。解剖すれば死因は明らかで、完全犯罪などできるわけがない。
まことしやかな巷《ちまた》の噂《うわさ》には、なぜか嘘《うそ》が多いものである。
 今度は、本人達の思い違いではなく、これを扱う第三者側の思い違いについて述べてみよう。
いじめられっ子の逆襲事件などは、まさに第三者側の思い違いの代表的事例である。
学校へ行きたくないと、子供が訴えたとき、両親は共稼ぎで忙しいから、勉強がいやなのだろうぐらいの理解で、ろくにわけも聞かず相談にものらずに、千円あげるから、学校に行きなさいなどと安易に小遣いを渡す。子供を慰め、はげましたつもりで親はことはすんだと思っている。ところが学校へ行けばクラス全体から自分一人がターゲットにされて、いじめられる。そのことを親にはいえない。先生に相談しても、解決しない。友人に話をしても、味方になればクラスメイトたちから同じいじめにあうから、煩《わずら》わしいことにかかわらないほうが無難だと、大人びた考えから相談にはのってくれない。一人ぽっちになってしまう。
いじめる方といじめられる方の精神的ギャップを生徒と先生だけではなく、親も子もそして日本人全体が理解しないと、いじめはおさまらない。
弱い者いじめをする精神構造の貧困さ、屈折した自分の心を恥ずかしいと思わないのだろうか。そのことに早く気づいてほしいものである。
なるほど現場は血だらけで、散乱しメッタ打ちされて二十も三十もキズがあり、被害者の顔は血だらけで変形し、原形をとどめていない。誰が見たって惨殺としか映らない。
しかし冷静に法医学の眼で現場を見、死体観察をすると、必ずしもそうではないことがわかってくる。
全身に二十も三十もの挫《ざ》創《そう》や打撲傷が散在しているが、生前に受けた外傷つまり生活反応のあるキズは二個か三個である。その他多くのキズは死後のキズで、生活反応のないキズであることがわかってくる。
つまり加害者は不意打ち的に被害者を襲い二〜三回頭を強打する。被害者は致命傷を受けて倒れる。しかし、弱者が強者に立ち向かっているので、中途半端なキズでは相手は起き上がってくる。起き上がってくれば、自分がやられてしまう。その恐怖のために狂乱状態になって、相手が生きているのか、死んでいるのかもわからぬままにメッタ打ちをする。そうしないと自分が不安なのである。結果としてメッタ打ちになる。
二十も三十ものキズ全部が生前のキズだと思うから、残忍な犯行に見えてしまうが、生活反応のある二〜三個のキズと、生活反応のない多数のキズを見分けることができれば、加害者の行動、心理状態を理解することができるのである。
残酷な性格であるがゆえに、メッタ打ちしているのではない。自《おのず》と事件の真相は見えてくる。
しかし、こうした事件が発生すると、どうしてもメッタ打ち、残忍な逆襲と報道されてしまう。これは第三者の思い違いなのである。いわゆる社会的誤原病かもしれない。
法医学者だけではなく、事件を報道する側、扱う警察側、そしてこれを裁く裁判所側にも、このことを十分わかってほしいと思うのである。
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