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死体検死医14

时间: 2020-04-14    进入日语论坛
核心提示:14 絆この事件は、兄が妹をいとおしむ、ほとばしる愛の記録である。兄A氏(大正十四年生まれ)が、実妹B子(昭和三年生まれ)
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14 絆

この事件は、兄が妹をいとおしむ、ほとばしる愛の記録である。
兄A氏(大正十四年生まれ)が、実妹B子(昭和三年生まれ)の死亡事件について、私に意見を求めて訪れたのが、平成八年三月二十六日のことであった。
B子は平成五年五月三十日の朝八時過ぎ、路上で倒れ意識不明になっているのを通行人に発見され、病院に収容された。手当てを受けたが、回復することなく六月二日午前三時三十分死亡。
事件の当日、警察は現場の状況から轢《ひ》き逃げを想定し、緊急手配をして対応したが、入院先の病院では、いとも簡単に病的発作によって路上に転倒した、内因性クモ膜下出血と診断したため、その日の昼前に緊急配備は解除されてしまった。
ところが死亡した六月二日に警察は、念のため司法解剖の手続きをとった。
結果は右側頭部打撲による外傷性クモ膜下出血と診断され、臨床医の判断とはまったく違っていた。
しかし時すでに遅く、病死として事件は処理されていたのである。
病的発作によるクモ膜下出血か、外傷性クモ膜下出血かの区別は、外部から見ただけではわからない。解剖して慎重に識別しなければならないのに、臨床医の病死という診断を採用して、交通捜査は打ち切られてしまった。
このような場合、警察は当然のことながら医学的判断に基づいて行動をしているので、病的発作と判定されれば、交通事故としての捜査が中止になるのはあたりまえのことである。
ドクターの診断の社会的影響力と、責任の重さをあらためて痛感する。
警察は臨床医と解剖執刀医のまったく異なる見解を詳しく聞き、検討したに違いない。
そこでわかったことは、臨床医はどのような根拠があったのかは明確ではないが、あくまでも内因性であることを主張した。一方執刀医は、クモ膜下出血は転倒などによっても生ずるもので、解剖したからといって転倒の原因までは読みとることができない、車と強く衝突したような外傷も見当たらないので、歩行中にクモ膜下出血という病的発作を起こし路上に転倒した、そのとき右側頭部打撲を生じたものと考えても、このケースは矛盾しないと、病的発作を肯定するような解剖医としてはまことに無責任な意見を述べたのである。
外傷性クモ膜下出血とまったく異質の病的クモ膜下出血を同一視した、おかしな見解であった。
なぜならば、バットで頭部を殴った外傷性脳出血は、殺人事件である。ところが病的脳出血の発作を生じて路上に倒れた場合は頭部に打撲があっても、病死である。
殺人と病死では、医学的にも法律的にもまったく異質のものである。これを同一視することは許されない。そのための司法解剖であったはずである。
病的クモ膜下出血には脳底部の血管に、動《どう》脈《みやく》瘤《りゆう》などの病変があり、これがあるとき突発的に破裂するもので、それなりの原因は解剖によって明らかにできるものである。ところが外傷の場合は、そのような病的原因はなく、外力の作用によって、脳表面の血管が破れて出血するので、解剖をすればその区別は比較的容易であり、そのための解剖なのである。
この事件がもつれた原因はここにある。つまり、医師の判断のあいまいさに起因しているのである。
 A氏は知人に紹介されたということで、私の家を訪れたのだったが、話を聞いてみると、
「先生は三十年もの長い間、東京都の監察医として変死者の検死や解剖をしてこられた。ものいわぬ死者の立場に立って、死体所見が語りかける真相を聞き、その人の人権を擁護していらっしゃる。ご著書に『死体は語る』(時事通信社)、『死体は生きている』(角川書店)などがあり、私も読ませていただきました」
ということで、この先生ならば相談にのってもらえるだろうと、確信したというのである。
A氏は昔から東京に居住し、妹B子は四国に嫁ぎ、以来兄妹は遠隔の地で長いこと生活していたのであったが、入院したという知らせを受けた兄は、すぐ四国にとんだ。
警察の説明を受け、A氏自身も現場に立って考えてみると、妹のからだにあった両足の外傷、左あごの皮下出血、左顔面の打撲傷などを総合して、素人であるがこれはもう交通事故以外の何ものでもないと思えてきた。
しかし、病院のドクターは内因性クモ膜下出血と診断したため、交通捜査は打ち切られた。
そんな馬鹿なと憤りを感じたが、どうしようもなかった。
それから三日後、意識不明のまま妹は死んだのである。
警察の説明、結論に兄は納得できず、自分で現場の写真をとり、妹の遺体の外傷をカメラに収め、交通事故(轢き逃げ)との因果関係を立証しようと、立ち上がったのである。
可能な限りの方法をとり、警察の判断が間違っていることを訴え続けたが、一度官憲が結論を下したことを、くつがえすことは容易なことではない。
ことに妹さんの連れ合い一家は、地元で生活しているので、いつまでもそんなことをして、警察にたてついているわけにもいかないから、もうやめてほしいと、義兄であるA氏に申し入れていた。しかしA氏は、東京に帰ってからも義弟一家に迷惑のかからぬように、兄の立場でたった一人、事件の見直しを訴え続けていたのである。
「先生いかがなものでしょうか」
そういいながらA氏は、持参した資料を机の上に並べ出した。
診断書や訴え出た書類の数々。それに現場の写真や死体の写真などもあった。
それなりに手順を踏み、理屈を通してやってきている。よくも素人がたった一人で、ここまでやってこられたものだと感心した。書類の文章もしっかりしていた。他人を納得させるだけの理論と表現力もあったし、それなりに時間も費用もかかっている。七十歳という高齢のどこに、その原動力があるのだろうか。
轢き逃げ事件がいとも簡単に病死にされてしまった理不尽さ。社会正義に反する安易な結果は許さない。それもあっただろうが、何よりも兄が妹をいとおしむ老兄妹愛、絆《きずな》を感じた。
しかしいかんせん、警察は専門医による治療と診断に加え、死後は大学の法医学の教授による司法解剖の結果に基づいて結論を下しているので、A氏が集めた現場の写真や死体の外傷写真などに、自分なりの意見を加えたとしても、所《しよ》詮《せん》は素人で初めから問題にされないし、勝負にならない。
しかし当人は何としても不《ふ》憫《びん》な妹を救わなければならないと、一《いち》途《ず》である。柔和な顔《がん》貌《ぼう》に秘められた強い兄妹の絆を見て、私の心は決まった。
久しくこんな清らかな気持ちになったことはない。どこまでできるかわからないが、こういう人のために法医学があるのだ。
妹さんは事件の当事者である。この兄にいいたい言葉があるはずだ。その言葉を聞き出せるのは、とりあえずこの私しかいない。
「やってみましょう」
「ありがとうございます」
A氏はそういいながら、深々と私に頭を下げた。
しばらく頭をあげなかった。涙が床に落ちるのが見えた。
この事件は業務上過失致死、道路交通法違反被疑事件として、検察官は検討していたが、明確な証拠がないため、すでに不起訴処分になっていた。
これを不服として、A氏は検察審査会に異議申立書を提出していたのである。
その前に、A氏と私が知りあっていれば、二人の医師の診断の是非を再鑑定してほしい旨、要請することができたはずで、事件の結末は正しい方向に流れたかもしれないのである。しかし残念ながら接点はなかった。
間もなく審査会の議決が出された。それによれば、申立人が主張するような事故は、関係書類に存在しないし、被疑者を特定するに足る証拠も見当たらない。よって検察官の嫌疑不十分とした裁定を覆すに足る証拠は発見できない。したがって本件は、内因性クモ膜下出血のため路上に転倒したもので、交通事故ではないとの結論であった。
A氏はそんなつもりで異議を申し立てたのではないのである。
妹を治療した臨床医と司法解剖した医師の判断に基づいて、交通捜査を中止し、病的発作による自己転倒と結論した一連の警察のあり方に疑問をもって、再調査を申請したのである。いうならば二人の医師の判断、医学的見解が本当に正しかったのか否かを、再検討してほしかったのである。
ところが検察審査会は、二人のドクターの考え方を見直すための再鑑定などはせず、今までにつくられた警察の書類と二人の医師の診断書や鑑定書などを鵜《う》のみにして、交通外傷を思わせるものはないから、病死であると結論しているのである。
なにをかいわんやである。
 早速、意見書を書くことにした。
三十年間の体験をふまえ、法医学的に指摘したその要旨は、以下のようなものである。
B子の両下《か》腿《たい》の外傷、とくに右下腿前面中央部の外傷は横に五〜六センチの帯状に蒼《そう》白《はく》となり、その辺縁は淡青《せい》藍《らん》色《しよく》に皮下出血を伴い、一部に赤褐色の表皮剥《はく》脱《だつ》があるので、その部位にはかなりの強度の外力が圧迫擦過するように作用し、外力による紋様が形成されたと考えられる。決して自己転倒などで形成されるような生やさしい外傷ではなく、疾走してきた二輪車(単車)などの前面部分に、右下腿前面中央部が接触し、紋様外傷を形成した可能性が高い。
さらに左あごの皮下出血、左顔面の打撲と右側頭部打撲傷は、B子の左側面から外力が作用し、右側頭部を路面に打つような姿勢で転倒した可能性が考えられる。とくに単車はその前面あるいは衝突面が、自動車などと違って一様ではなく、車体のみならず、運転者とも接触する可能性がある上、ハンドルや車両の可動性を考慮すると、被害者に形成される外傷は、多種多様になることに留意しなければならない等々。
加えて死因となったクモ膜下出血が、内因性か外傷性かの区別をするには、第一に脳底部の血管に動脈瘤があるのか、ないのかが重要なポイント(内因性クモ膜下出血は動脈瘤の破裂によるものが多い)であるが、この存在の有無の記載もないし、論争にもならぬままB子には衝突外傷がないと一方的に判断し(右下腿部前面中央の紋様のある皮下出血をどのように理解しているのであろうか)、本件は病的発作による路上転倒、すなわち内因性クモ膜下出血と断定していることは、医学的理論を無視した結論である、などと矛盾点を指摘したのである。
しかし、時期があまりにも遅かったようである。
法律上の手順を経て、なすべき審議はつくされ、結論は出されていたのである。
審議の内容は、今までにつくられた書類の再点検をしただけで、書類そのものの信《しん》憑《ぴよう》性《せい》を検討する作業ではなかった。申請者の意とする審議はなされていないのである。
もう一度、私の意見書を読んで、異議申立人の意とする本当の審議をやってほしいと、関係各局への意見書をつけ、A氏は願い出た。
しかし、すべての審査は終了し結論は出されているとの返答で、申請は却下されてしまった。
情けない。
むなしさだけが残った。
 かつて何度となく扱ってきた、過労死のケースと似ていた。
会社の仕事がハードで、残業の連続で休暇も取れず、肉体的にも精神的にもヘトヘトになって、勤務中に倒れて死亡する。
検死、解剖をすると、脳出血の病死である。
しかし、残された妻子は父の死亡は単なる病死ではない。会社のために仕事をしすぎたためのもので、業務上の過労死であると主張する。解剖所見に、脳出血の事実をこの眼で確認することができるが、疲労の有無はわからないから、業務上の過労死だと判断することはできないと、妻子に説明する。当然のことながら、妻子は納得しない。
そこで私は執刀医として、意見書を書き、労働基準監督署とかけ合うことを約束する。
会社側から勤務表を取り寄せ、過労状態にあったことを立証し、本人にはもともと脳出血を起こす要因があったにせよ、このような過労が発病を早める引き金になったことは、否定できない。なぜならばわれわれは、過去を背負って今を生きているので、過労という近い過去、あるいは現在の要因を分離して、単なる病死としての脳出血と結論することは、医学的に不適当である。
過労は発病を誘発した重要な引き金になっている、との意見書を書いた。
役人の返答は決まっていた。
脳出血は病死であり、業務上の災害事故死には該当しないというものであった。
しかし私は、このようなケースには積極的に意見書を書き、過労死の存在をアピールし続けた。
妻子の願いと私の意見はことごとく退けられたが、ひるむことはなかった。
監察医をやめて二年後、過労死が認められたことを報じた新聞を読んで、だめかと思った意見書の積み重ねが実ったことを知り、嬉《うれ》しかった。
弱者の喜びが聞こえてくる。
 B子の事件も、今はだめでもやがて理解される時代はきっとくるだろう。そう信じたかった。
フェイントをかけられ、だまし打ちに合ったような感じで、納得いくような結論ではなかったので、
「そんな馬鹿な」
と私は憤りをそのまま言葉に出した。
ところが、A氏はそんな私を、なだめたのである。
「先生のお力を借り、やることはやったのだから、B子も満足していることと思います。もう、よしとしましょう。そのかわり、これまでの経過を本にまとめ、自費出版して妹の霊前に捧《ささ》げようと思います」
A氏も、心にひとくぎりついたのだろう。
「B子もきっと喜んでくれると思います」
すべては終わった。
老兄妹の愛の絆が、はっきりと美しく輝いて見えた。
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