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死体検死医21

时间: 2020-04-14    进入日语论坛
核心提示:21 銃犯罪名古屋のある銀行の支店長が、自宅マンションの玄関前で射殺された。それから十か月後、今度は東京の八王子のスーパー
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21 銃犯罪

名古屋のある銀行の支店長が、自宅マンションの玄関前で射殺された。それから十か月後、今度は東京の八王子のスーパーで、女店員とアルバイトの女子高校生二人が、事務所内で強盗に襲われ、射殺される事件が起こった。
いずれの場合も銃で頭を撃たれ、銃声を聞いてすぐに駆けつけたが、犯人の姿はなく被害者は死亡していた。
諸外国に比べれば、わが国の銃犯罪はきわめて少ないが、最近は増加の傾向を示している。
かつて医師も銃創を見たことがなかったから、丸く小さい穴を診《み》て、キリによる刺創と誤診し、事件の解決を遅らせたこともあった。
また銃で頭を撃てば、即死すると思っているだろうが、必ずしもそうではない。
からだを客観的に観察すると、自分の思いどおりに動かせる神経系(随意神経、つまり動物神経ともいい、脳脊《せき》髄《ずい》神経を支配する)と、思いどおりに動かせない神経系(不随意神経、つまり植物神経ともいい、自律神経を支配する)があることがわかる。
自分の意志どおりに自由に行動できるのは、動物神経系を操って行動しているからである。しかし、眠ってしまい意識不明になっても、心臓は止まることなく拍動し、呼吸も消化吸収も行われている。この無意識の行動が植物神経系(自律神経)の働きである。
この二つの神経支配によって、からだはコントロールされているが、脳を機能的に分類すると、脳幹と終脳に分けられる。
脳を棒アメにたとえれば、アメにとり囲まれた棒の部分が脳幹(三〇パーセント)で、アメの部分が終脳(七〇パーセント)ということになる。
脳幹には植物神経系(自律神経)の中枢があり、ここから末《まつ》梢《しよう》にむかって神経線維が伸びていき、平滑筋(不随意筋)からなる血管壁、消化管壁あるいは心筋、臓器などに分布して、オートマチックにこれらをコントロールしている。
一方、終脳には動物神経系(脳脊髄神経)の中枢があって、ここから末梢にむかって神経線維が伸びていき、骨格筋(随意筋)に分布し、自分の思いどおりに手足を動かす。
つまり覚《かく》醒《せい》しているときには、終脳支配で随意筋を動かして行動するが、意識不明になって眠っているときは、脳幹支配で不随意的に血液循環、呼吸、消化器系などをオートマチックに動かし、生活を維持しているのである。
植物状態というのは、終脳にダメージを受け、意識不明で昏《こん》睡《すい》状態にあるが、脳幹は無傷なので呼吸、心拍動には支障なく、栄養を与えれば消化吸収して、生き続けることができる。
ちょうど植木鉢の植物のような状態をいう。
『脳死』は、脳幹にダメージを受けた場合をいう。心拍動、呼吸、消化吸収など生命維持に必要な器官に対して脳から活動せよとの指令が出ないので、放置すれば間もなく死に至る。そのため脳の指令に代わって人工心肺器を取りつけ、機械でそれを動かし延命をしている状態が『脳死』なのである。
『脳死』になってしまうと、最新医療の限りを尽くして治療を行ったとしても、もはや生の方向に戻ることはない。なぜならば、神経細胞は他の細胞と異なり再生能力がないので、一度ダメージを受けると蘇《よみがえ》ることはできないのである。
人工心肺器を装着して呼吸させ、血液を循環させると、脳を除くすべてのからだは生きつづけるが、機能を停止した脳は血液の循環を受け入れないので、脳の組織は壊《え》死《し》に陥り腐りはじめる。だから脳死の状態を「生きたからだに死んだ脳」と表現することもある。
医学的には死んでいる人を機械で動かしているのが『脳死』であり、延命術なのだ、とはいえ、二〜三週間後には機械にも反応しなくなり、呼吸が停止し、やがて心臓も止まって死が訪れる。
これまでは脳、心、肺の機能が永久に停止した時をもって死亡としているので、生と死の境界は瞬間としてとらえられている。ところが延命術が発達し脳死という状態が発生すると、『脳死』が死のはじまりとなり、二〜三週間後に呼吸停止が生じ、やがて心臓停止が起こったときが死の終わりということになる。
瞬間としてとらえていた死に、二〜三週間という幅が生じたのである。さらに脳死の間は自分の力で心、肺が動いているのではない。セットされた人工心肺器によって動かされ、生かされているので、スイッチを切ればその時点で患者は死ぬことになる。
医学的に『脳死』は死なのである。だからその間に臓器移植が可能であろうと、専門医は考える。新しい臓器ほど移植後の定着率が高いことがわかっているから、専門医たちは、脳死と臓器移植について国民の理解と同意を得ようと努力しているのである。
しかし、人の死は医学的判断のみでよいのかというと、必ずしもそうとは限らない。
あるときテレビで、母猿が死んで干からびたわが子を抱きかかえて生活しているのをみた。“やらせ”ではないかと、動物の専門家に尋ねたところ、母猿は死産した子はそのまま置き去りにするが、生まれてから数日後に死んだ子は、生きている子供と同じように手放さないで、共に生活しているという。
驚きと感動で、胸がつまった。
猿でさえそうなのだ、ましてや人においてをやである。
生きる者にとって、死を科学的にのみとらえることは、必ずしも十分な対応ではないことを思い知らされた。
脳死と臓器移植を容認しているアメリカの人々は、電車から降りる際、前に立っている人に、降りますからどうぞおかけくださいと席を譲るように、脳死と臓器移植をとらえているという。
「私は死ぬのです。どうぞ必要ならば、腎臓でも心臓でもお使いください」と。病める人の気持ちを十分理解しているからであろう。
しかし、われわれ日本人には、そこまでフランクに命をとらえることはできないであろうし、脳死と臓器移植は日本人にはなじみにくいという国民性(感情)があるように思える。
脳死は、外見上は意識不明で植物状態と変わりないように見えるが、解剖生理学的にはまったく別の状態である。
銃で頭を撃たれ、弾丸が終脳をよぎれば意識を失うが、即死には至らない。何日かは生きられる。しかし脳幹をよぎれば心拍動、呼吸停止が起こって、ほぼ即死状態になる。
銃声を聞き数分後に駆けつけたが、被害者はすでに死亡していたというのは、どこを撃てば死ぬかを知っている銃の使い手の犯行と考えられる。
とくに八王子のスーパー強盗の場合は、売上金を奪う目的であったのだろうが、四百五十万円程度の少ない金額を奪えず、三名を射殺して逃走した。
現場でどのような事態があったのかは知る由もないが、金額から考えても三名を殺害した犯行は、間尺に合わないような気がする。
なぜ、手荒なことをしたのか。
覆面で顔を隠して押し入った犯人が、被害者に見破られて○○さんではないですかなどと名前を呼ばれたりすると、逃げてもすぐつかまってしまうことを恐れ、口封じのために殺す場合がある。あるいは、指名手配中の人物で巷《ちまた》に顔写真が掲示されているとか、犯人の顔に非常な特徴があって、一度見たら忘れないような場合も、殺される危険があるだろう。また犯人とのやりとりの中で、警察に連絡がとれているからなどと、強がりの会話があったりすると、犯人は保身の心理が働いているから、殺害することがありうるのだ。
この事件でいえる犯人像は、銃の使い手ではあるが、盗みのプロではないようだ。あるいはわれわれ日本人と死生観を異にする外国人の可能性も考えられる。
それはともかく、日常生活の中に銃器は必要としないし、平穏な生活が保たれる社会をつくるよう、国も個人も努力しなければならない。
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