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死体は生きている15

时间: 2020-04-14    进入日语论坛
核心提示:延命術の波紋 医学のめざましい発展の中で、臓器移植という新しい治療法が開発されてきた。脳出血で倒れたり、あるいは頭部外傷
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延命術の波紋
 
 医学のめざましい発展の中で、臓器移植という新しい治療法が開発されてきた。
脳出血で倒れたり、あるいは頭部外傷などで脳にかなりのダメージをうけると、呼吸中枢、心拍動中枢などが障害されて死亡する。
この患者に人工心肺器をセットし、脳の指令にかわって人工的に肺に酸素を送り、また心臓を動かし、栄養を補給し続けるとかなりの期間、生きながらえるようになった。
延命術と呼ばれるものである。
普通人体の細胞は障害をうけると、周囲の細胞が分裂増殖して破壊された部分を修復する性質がある。
切り傷が治り、機能的にも元に戻るのはこのためである。
ところが全身に指令を出し、コントロールしている脳の神経細胞だけは、再生能力がないので、一度障害されると二度と復活されないという特性がある。
つまり一個の神経細胞は一人の寿命と同じ運命をもっているのである。
脳には約一四〇億の神経細胞があるといわれ、少々の神経細胞が障害されても、日常生活には支障をきたさないが、高齢になるとからだの動きや思考の衰えがくるのは、長い年月の間に相当数の神経細胞が崩壊されたためでもある。
このように脳は、神経細胞の特性からいっても、また機能的にみても、きわめて重要な臓器であるから、その周囲は頭《ず》蓋《がい》骨《こつ》という骨に取り囲まれている。こんなにかたくガードされた臓器はほかにない。
その次に重要な臓器は心臓と肺臓であろう。これは、駕《か》籠《ご》のようなあばら骨で被われている。
次に重要なのは肝臓、腎臓、脾臓、胃、腸などおなかの臓器であろうが、これらは殆《ほと》んど骨というよりは筋肉でしかガードされていない。
おなかの臓器だって重要だから、骨のガードが欲しいのである。しかし、ここまで骨でかこっては人間としての動きが出来ないから、そこはそれでよしとしなければならない。
このように人体の構造を観察していくと、創造の神の気くばりというか、偉大さがわかってくる。
ところで脳、心、肺という重要な三つの臓器が永久にその機能を停止した状態を死と定義してきた。
この瞬間、生体は死体となるが、まだ個々の細胞のレベルでは、血液中の酸素をつかって生きている。しかし、この状態を死と宣告して社会的にも法律的にも、また医学的にも何ら支障はない。
したがって死は瞬間としてとらえられ、死亡時間は、何時何分と記入することになっている。
ところが延命術が発達してきたことによって、脳の機能が全く停止しても、人工心肺器をセットすると肺臓と心臓が機械的に動かされて機能する。
勿《もち》論《ろん》このセットを取りはずせば即、死となるが、この延命術によって生かされている間、いかなる治療をほどこしても一度ダメージをうけた神経細胞は回復能力がないから、脳は生きかえらない。
この状態を脳死といった。
脳死になった患者は、いかなる方法を講じても二週間位が限度で、結局は死んでしまうので延命術も、煎じつめれば死者に治療をしているようなものであるとさえいわれだした。
医学的には脳死は人の死であることから、臓器移植という治療法が、クローズアップされたのである。
死体からの移植でもよいのであるが、死後直ちに必要な臓器を取り出さなければ、移植にはつかえないので、突発的に提供者が現われても間に合わない。提供者はできることならば、若くて健康な人が災害事故などで脳にダメージをうけ、回復することのない脳死に陥り、数日後に死亡するようなケースが最適なのである。
提供者側と受給者側の準備期間などを含め、ある程度の時間的余裕が必要なのである。
従来の死の定義は脳、心、肺の永久的機能停止のとき、ドクターは死の宣告をした。その瞬間、生体は死体とされた。
しかし、脳死の場合は死は瞬間としてとらえられなくなった。
先ず脳死がはじまった時間があり、数日後肺臓、心臓の機能が停止した従来通りの死の時間とがある。
つまり、脳死は瞬間死ではなく、時間的に大きな幅がある。その幅の中で臓器移植が行われるのである。
わが国ではまだ脳死というものに、国民的合意が得られていないので、準備は整っているが実施されてはいない。
また、提供者の条件を満たす若者の災害事故などは、変死扱いになるため警察官による検視、医師の死体検案(検死)が行われたあとでなければ、臓器移植はできないので、その手順を踏んでいると、死亡後の時間がたち過ぎて臓器は移植につかえない状態になってしまうなど、いろいろな問題がある。
これらをのり越えないと、わが国の脳死、臓器移植は実現しそうにない。
それはともかくとして、法医学の現場においては、死亡時間をめぐるトラブルは多い。
たとえば、火災事故などで一家五名が焼死したようなとき、厳密には死亡時間はそれぞれ異なるであろうが、実際に差を見つけ出すことはむずかしいから、ほぼ何時何分頃と同じ時刻と判断して問題は起こらない。
ところが、病死の場合にはそうはいかない。
老夫婦二人暮らしの場合など、久し振りに訪れた身内のものが、死亡している二人を発見するようなことがある。
変死届が出され、警察が捜査すると現場の状況から自殺や他殺ではないことが、明らかにされると、夫婦はともに病死ということになる。となれば、死因は勿《もち》論《ろん》、死亡時間などが同じであるとは限らない。
死亡時間が異なれば、先に死亡したものよりも、あとに死亡した側に遺産相続の権利が有利に作用する。

私が臨場したとき、浴室の流し場で妻は素裸のまま死亡していた。夫は服を着て妻の背後から、両脇《わき》をかかえて救助中の姿で死亡していた。
八十前後の老夫婦で、ともに動脈硬化、高血圧症、冠不全などで投薬治療をうけていた。
警察では妻が入浴中、心臓発作か何かで流し場で倒れた。あまり長湯なので夫が様子を見に行くと妻は倒れていた。驚き、あわてふためき救助作業中に、夫も心臓発作を起こして死亡したのではないかと推定していた。
妻が先に死亡し、夫はあとから死亡したと判断したのである。
当然であろうが、監察医は状況からではなく、あくまでも死体所見から死因や死亡時間を見出さなければならない。
どちらかが腐敗し、片方に腐敗がないとか、死体硬直に大きな差があるとかで、死後経過時間に歴然たる差が生じていれば、見分けはつくが、どちらも死後一日位たっているようで時間的な差を見つけることはむずかしかった。
狭い浴室から両者を座敷に移して、全身をくまなく検死をすると、老妻の背中と右脇の下に淡黄色をした十糎《センチ》位の線状表皮剥《はく》脱《だつ》がみられた。
注意深く観察すると、爪《つめ》のひっかき傷のようであった。
夫が救助作業中、ひっかいたように思われた。傷には生活反応がない。
生前のひっかき傷であれば、軽度の出血を伴って赤褐色の線状表皮剥脱になっていなければならないが、それは淡黄色で真皮の下の脂肪がすけて見えているので、死後の損傷であることがはっきりした。
念のため警察官が浴室から遺体を座敷に移動するときに、つけたものかと疑ったが、彼らは常に現場保存を心がけているから、白い手袋を使用しているので、遺体に傷をつけるはずはなかった。
この所見を調書に記載し、死亡時間は妻が先に死に、救助中夫が死亡したと三十分の差をつけて事件を処理したことがある。
高齢者の一人暮らしで茶のみ友達から再婚するようなケースが増えている。
同時死亡か否かの区別はむずかしいが、死亡時間をめぐる遺産相続のトラブルは多い。
死を瞬間としてとらえてもトラブルが起きているのに、幅をもたせたならばこの混乱はさらに広がるのではないだろうか。
延命術は脳死を産み出し、臓器移植へと発展し、さらに死亡時間の問題をもまじえて法律的にも、医学的にもそして社会的にも、大きな波紋を投げかけている。
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