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死体は生きている36

时间: 2020-04-14    进入日语论坛
核心提示:田舎芝居 わが国は今、種々の事情で核家族化がすすみ、お年寄りとの共同生活は少なくなってきている。だから子供達は祖父母の存
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田舎芝居
 
 わが国は今、種々の事情で核家族化がすすみ、お年寄りとの共同生活は少なくなってきている。だから子供達は祖父母の存在を、あまり深く理解していない。
三世代同居の家でも、子供達は年寄りとは一体何者なのだろうという感じで見ているところもある。
両親はそれぞれに仕事をもち忙しい。自分達だって学校が終われば塾通い、好きなテレビやファミコンなどで遊んでいてはしかられる。
塾へ行かない子を未塾児というそうだが、そんな子は少なくなっている。
親だけでなく、祖父母などからも何かと口うるさくしかられたりする。
ところが年寄りは、勤めに出るでなし一日中家に居て、テレビなどをみてこれといってする仕事もない。お年寄りって何んだ、とさめた目で見ている面もある。
昔はテレビもなく、絵本にしたって仲々買ってもらえなかったから、親や祖父母に昔ばなしなどを聞くのが、大変な楽しみであった。
また祖父母が親に意見をしているようなところを見たりしているから、子供心にも年寄りは偉いものだと思っていた。
子供が茶《ちや》碗《わん》を割って、母親からひどくしかられた。数日後今度は祖母が茶碗を落して割ってしまったが、母は何もいわなかった。ばあちゃんはいいなと、子供はしみじみといったので、夕《ゆう》餉《げ》のひととき一家は大笑いしたという話を子供のころ聞いたのを思い出す。
今の子は年寄りが、人生経験豊富であるというだけでは承知しない。常に人間として同格と見ているからであろう。
知識、情報が氾《はん》濫《らん》しているから年寄りの回りくどい話などに耳をかさない。それよりもテレビやマンガ本の方が、はるかにおもしろいのである。
家の中で年寄りの存在価値は、薄らいできている。
また家は狭いし、物を大事にしようとしても、とって置く場所とてない。使えるものですら、古くなると新しいものに買い換える。使い捨て時代になっている。年寄りはついていけない。
それどころか、粗大ゴミなどといわれて自身さえ捨てられそうな時代である。
過去の栄光などは少しも評価されることもなくなっている。
つい先ごろ、高校生の孫が祖父を殴り死亡させる事件が起こった。学校をさぼり、両親に反抗的であったため、祖父に度々説教され反感をもっていたというものである。
年寄りから得るものは何もない、などと子供達はうそぶくのである。
驚くべき世代になったものだと思う。
老人を敬愛するようなことが、少なくなってきた。
平成元年度の警察庁の「自殺白書」によれば、全国の自殺者数は男女ともに前年より減少したが、高齢者だけが増加を続け、全自殺者の三分の一以上が六十歳以上の年代であるという。
自殺の動機は大半が病苦(七十五%)となっている。
毎度のデータである。
日本ばかりではなく、諸外国においても老人の自殺の動機は、トップが病苦となっているが、本当の動機は身内の人々によって修飾され、隠されてしまっているのである。
なぜこのようなことをいうかというと、監察医として警察官と一緒に老人の自殺の検死に、一般家庭に赴き現実を直視しているからである。
ここで感ずることは、独り暮らしの老人よりも、三世代同居の老人の自殺率が高いことである。
年寄りは心身の機能が低下し、社会的役割もなく、収入も少ないから家庭内では、重荷として扱われ疎外されている。
生活の中で会話や団らんもなく、片隅に追いやられた状態が目につく。息子夫婦から自殺の動機を聞いても、実にあいまいで何一つ不自由なく生活していたはずだから、原因はわからないという。
自分達のことは棚にあげて、自殺したお年寄りを迷惑がる始末である。
しかし、生きることに耐えきれなくなって死を選んだからには、それなりの理由があるはずで、一緒に生活している身内が知らないはずはないと、切りかえすと、そういえば神経痛がひどくなっていたからでしょうかなどと、病苦を動機に持ち出してくる。
人生の荒波を乗り越えて七十年、八十年と生きてきた人が、なぜここで神経痛ぐらいで死ななければならないのか、とつっ込むとお茶を入れてきますと、奥へ引っ込んで出て来ない。
病苦は本当の理由ではない。
世間体を考え、体裁を整えているだけのことである。
家族はも早や、親を重荷として疎外しているからにほかならない。
現場の雰《ふん》囲《い》気《き》でそのことは、すぐに推察されるのである。しかし、プライバシーにかかわることだから、そんな馬鹿な、嘘《うそ》でしょうなどとつっ込むことは出来ない。だから調書には、家族のいうように自殺の動機は病苦とせざるを得ないのである。
病苦といっても死に迫った病気などは殆《ほと》んどなく、血圧が高いとか神経痛などで苦痛、苦悩は少なく、身内の温かい介添えやいたわりがあれば充分癒せるものばかりで、老人に対する家庭内の対応が冷たかったためと思われるものが多い。
本当の動機は病苦ではなく、家庭の中に潜む冷たさである。
独り暮らしであるから、寂しく孤独であるのではない。独り暮らしは自分の城をもち、訪れる身内や近所の人達と交際し、それなりに豊かなのである。むしろ同居の中で信頼する身内から理解されず、冷たく疎外されていることのわびしさが、老人にとって耐えられない孤独なのである。
老人たちは自分を主張することもなく、また子供達を恨むでもなく「お世話になりました」などと遺書を残しているのである。
検死の現場で、このようなケースに遭遇することが多くなって、私はだまってはいられなくなってきた。
同僚らと一緒に調査分析して「老人の自殺」と題して、東京都の衛生局学会に発表した。
昭和五十一年から五十三年までの統計であったが、すぐに新聞やテレビに取り上げられ、福祉関係者の注目を集めた。
その後、この論文が国の福祉政策に少なからず影響を及ぼし、改善されたという話を聞いて、自らを語ることなく死んでいった老人の代弁者になれたことをうれしく思った。
統計上、老人の自殺の動機は病苦がトップになっている。プライバシーにかかわることであるから、調査上止むを得ないが、本当の動機は前述のように家庭内の対応の冷たさにあり、八割以上はこれであるといって過言ではない。
これを理解せずして、老人問題を論ずることはできない。
昭和は終り、平成の時代になったが高齢者の自殺だけは増えつづけている。
これは単に福祉の問題だけではない。社会的最小単位である家庭のあり方から出直さなければ、この問題は解決しないと思うのである。
しかし、老人をめぐる悲しい事件が、今も起っている。

子供のときに脳性麻《ま》痺《ひ》となり、ねたきりの生活になっていた六十四歳の女性は、母親のつきっきりの介護でどうにか生きてきた。
近くに六十歳になる妹が、世帯をもっていた。時々母と姉の様子を見に顔は出すが、自分達の生活をするのが精一杯であった。
母親は八十五歳と高齢で、最近は健康もすぐれず、介護に限界を感じていた。
この子を残して、母は死にきれない。
結局、母子無理心中という結末に終っている。
同じようなケースがある。
ねたきりの姉の世話に疲れた妹は、姉を殺し、自分も自殺した。
姉妹とも八十歳をすぎていた。
悩み苦しみ、どうにもならない瀬戸ぎわに追いつめられての行動であったことを思うと、福祉の手がさしのべられなかったことに、いら立ちを覚える。
これら家族には介護という、愛の手が不可欠なのである。福祉には莫大な予算が当てられているのであろうが、キメの細かさが足りないように思われる。
福祉とは、安心であるというが、正にその通りである。

戦後、娯楽の少なかったころ、私は北海道の積《しやこ》丹《たん》町で何年か過ごした。
小さな漁師町であったが、映画館に時々芝居がかかった。出しものはいつも時代劇の人情ものときまっていたが、常に満員であった。
その夜も親分が大勢の子分を引き連れ、借金の形にいやがる美人の娘を無理やりに連れ去ろうと、病床にある父親をいじめる。
娘は父親をかばい、父は娘をかばうが窮地に追い込まれ、どうしようもない場面になっていた。
そのときである。
観客席から、漁師姿のじいさんが長靴のまま舞台に上っていった。
「ええかげんにしろ! 一体いくら出せばいいんだ」
と酒の勢いもあって、じいさんは懐に手を入れながら、悪玉の親分の前に立ちはだかった。
「かわいそうで、みていられねぇー」
このハプニングに劇場は、拍手と喝采が湧《わ》き上った。
昔は、こういうじいさんがいたのである。
座長がとび出して来て、これは芝居ですからとその場を納めたが、すばらしい光景であった。
さびれた漁師町で、今は観光地になっているが、切りたった断《だん》崖《がい》と青い海。
そこにはぐくまれた人情豊かな積丹町は、私の心のふる里でもある。
私も年寄りの部類に入ってきたが、だからといって年寄りを大事にしろとはいわない。
わが国も人情豊かな福祉国家であるように、そしてまた、若い者に敬愛されるような人間になろうと努力していきたいと思うのである。
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