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死体は語る21

时间: 2020-04-14    进入日语论坛
核心提示:崩 壊家族でありながら、お互いの信頼関係がくずれると、どうにもならないところまで崩壊していく場合がある。支店長の一家は、
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崩 壊

家族でありながら、お互いの信頼関係がくずれると、どうにもならないところまで崩壊していく場合がある。
支店長の一家は、妻と子供三人の五人暮らしであった。平穏な家庭であったが、中学生の長男が腎《じん》臓疾患で死亡したことから、一家の悲劇は始まった。長男の死によって母は強いショックを受け、精神状態が不安定になってしまった。不眠症から睡眠剤を常用するようになった。彼女は結婚前、一時的であったが精神科に入院したことがある。その後、治癒したため結婚したという。
支店長は仕事の関係で、帰宅が遅く、長男の死後も傷心の妻を慰めてやるだけの心遣いや、家庭を顧みる余裕もなく、仕事に追いまくられていた。
夫に対する不満は募る一方で、彼女の精神不安は増悪していった。やがて帰宅の遅い夫に愛人でもできたのではないかと疑いを持ち始めた。ある夜、疑念がこうじて会社から出て行く夫を尾行したのである。
案の定、料亭で宴会となり、酔った夫が酌婦とふざけている現場を目撃してしまった。彼女の心は大きく揺れ動き、夫の弁解など聞き入れようとはせず、すぐに口論けんかとなって、夫婦の仲は冷えていった。
数年後の春、妻は突然家出をした。旅先で睡眠剤を服用して、自殺を図ったが未遂に終わった。
長女(高校生)と次男(中学生)の姉弟は、母をここまで追い込んだのは父であると思い込み、父の不潔な女性関係に憤り、母に強い同情を寄せていた。話し合えば誤解は解けるようにも思えたが、夫婦の会話はすぐに口論へと発展し、和合の糸口はつかめず、子供たちの父親不信は募るばかりであった。
その年の秋、妻は睡眠剤百錠入り三箱を買い、茶碗《ちやわん》に入れ、水に溶かして服用した。長女が学校から帰り、ふらふらしている母を発見した。間もなく弟も帰宅した。姉弟は母のあとを追って一緒に死のうとしたが、茶碗は空で薬はなかった。
結局、母の手当てに走ったのである。救急病院に収容され、手当てを受けたが、意識不明のまま半日後に母は死亡した。
姉弟は、母を自殺させたのは父であると信じ憎しみ、機会があれば母のあとを追うような言動があったので、父は子供たちの気の静まるまで勤めを休み、子供たちにも学校を休ませ、父と子の心のつながりの回復に努めた。
十数日後、子供たちは元気に登校して行った。一家の再出発ができたと父も安心して勤めに出た。それから間もない日、死んだ母の誕生日がやってきた。
いつもと変わりなく、父と子らは午後の十一時ごろ就寝した。この就寝は姉弟にとって、父を欺くための手段であった。前から二人は、母の誕生日に母の元へ行くべく打ち合わせていたのである。
父のいびきが聞こえだしたころ、姉は弟を起こし、用意してあった睡眠剤六箱を等分にし、以前母がやったように茶碗に入れ、水に溶かして服用したのである。死に先立って、姉は死んだ母宛に、
「誕生日にお母さんの元にまいります。さびしがらずに待っていてください。私がお母さんのお世話をいたします」
という遺書を残し、さらに父には、
「死んだ私たち二人のからだには、ふれないでください。母を殺したのはお父さんです」
と恨みの言葉を残した。
弟は、姉の言われるままに行動したものと思われる。そして姉弟はテーブルの上に、飲み残しの茶碗と遺書を置き、再びそれぞれの布団に戻った。
翌早朝、子供たちの異常ないびきに父は目を覚ました。子供たちの寝息は妻の自殺のときと同じであった。救急車を呼び、病院に収容したが、弟は間に合わなかった。姉も昏睡から覚めることなく、夕刻死亡したのである。幼い姉弟が母を追っての心中であった。
一家は崩壊した。父親には本当に愛人がいたのだろうか。母親には精神病的要素はなかったのだろうか。そして、姉弟はこの両親のもつれの真相を理解するだけ大人であったろうか。些細《ささい》なことが結果を大きくしてしまった。お互いが容認し理解し合えば、防げたように思えてならない。それはともかく、大人としての責任を痛感する。
 私は監察医として三十年間も、いろいろな異状死体の現場に臨場してきた。とくに自殺に学問的興味をもっているわけではないが、このような事例に出会うと、死にゆくものの心の中が私にも読みとれるので、何とか救う手だてはないものかと思う。だが、そう感じたときは、事件はすでに終わっているのでいかんともしがたい。
もどかしい思いで仕事をしているうちに、自らの心の中を家族に打ち明けることもなく、身内から疎外され、わびしく死を選んでいく年老いた人々が目立って増えているのに気がついた。この実態を世に訴え、弱者救済の道が開けるならば、衛生行政上すばらしいことであり、その人々の代弁者となれるのは、現場に立って実態を調査している監察医しかいない。救う手だてはこれしかない、と思うようになった。
そこで昭和五十一年から五十三年までの三年間を、同僚二人と一緒に調査分析し、「老人の自殺」と題して学会に発表した。医学の進展とともに平均寿命が延びている反面、老人の自殺が増加しているのは世界的傾向といわれている。人生経験豊かな老人たちが、自ら死を選ばなければならなくなった背景に、豊かさの中のひずみのようなものを感ずる。とくに、わが国の人的構成は、戦前の教育を受けた老人と戦中に育った壮年、そして戦後これまでとは全く異なる自由主義思想の中で育った青少年の三層から成り、相互の協力によって家庭や社会をつくり上げている。
しかし、老人は社会の第一線から退き、家庭にあって主義主張の異なる世代から理解や敬愛されることも少なく、細々と余生を送っているように見受けられる。これら老人の自殺の検死に出向き、感ずることは家庭内の冷ややかさである。
死体所見はともかく、普段の生活でも年寄りとの会話や団らんなどはなく、片隅に追いやられた状態が目につく。自殺の動機などを家族から聞いても、実にあいまいで、なにひとつ不自由なく生活していたはずなのになどと、自分たちのことは棚にあげて、自殺したお年寄りを迷惑がる始末である。
しかし、生きることに耐えきれなくなって死を選んだからには、それなりの理由があるはずで、一緒に生活している身内が知らないはずはないと、切り返すと、そういえば神経痛がひどくなっていたからでしょうかなどと、病苦を動機に持ち出してくる。
人生の荒波を乗り越えて七十年、八十年と生きてきた人が、なぜここで神経痛ぐらいで死ななければならないのか。病苦は本当の理由ではない。
体裁を整えているだけのことだとわかるから、もうそれ以上の質問はしない。不快感を押さえて沈黙したまま検死を終わらせる。
家族はも早、親を重荷として疎外しているからであり、そのことを他人には言えないから、老人の自殺の動機は家族の言うように病苦とせざるをえない。したがって統計上、病苦がトップになっている。現場に立つ監察医には、その事情が手にとるようにわかるのである。
病苦といっても、死に迫った病気などはほとんどなく、血圧が高いとか神経痛などであり、苦痛、苦悩は少なく、身内の温かい介添えやいたわりがあれば、十分癒せる疾患ばかりで、老人に対する家庭内の対応が冷たかったためと思われるものが多いのだ。
本当の動機は病苦ではなく、家庭の中に潜む冷たさである。そこに老人問題の難しさがあることを、改めて知らされた。
東京での老人の生活状況は、三世代世帯の老人が最も多く、次いで子供と二人暮らし、夫婦二人暮らし、独り暮らしの順であった。家族と同居の老人こそ、最も幸せのように思えたが、必ずしもそうではなかった。独り暮らしであるから寂しく孤独であるというものでもない。独り暮らしは自分の城を持ち、訪れる身内や近所の人たちと交際し、それなりに豊かさを持っている。
むしろ同居の中で、信頼する身内から理解されず、冷たく疎外されていることのわびしさが、老人にとって耐えられない孤独であり、それが自殺の動機になっていることを見逃すことはできない。最も幸せに思えた三世代世帯の老人の自殺が一番多いのに驚いた。
嫁と姑 《しゆうとめ》の問題などをはじめ、老人の自殺の動機は家庭問題にあり、七〜八割がこれであるといって過言ではない。いずれにせよ老年期は、心身の機能が低下し、社会的役割の低下に伴い収入が減少し、そして家庭内では家族から重荷として扱われ、疎外されていく。他人ごとではなく、やがてわれわれ自身にふりかかってくる問題である。
この論文は、すぐ新聞やテレビに取り上げられ、福祉関係者の注目を集めた。とくに総理府、厚生省、国会議員などからもデータを含めて意見を求められた。当時は独り暮らしの老人に福祉の主眼が置かれていたが、その後家族と同居の老人も見直されるようになった。
この論文が国の福祉政策に少なからず影響を及ぼし、改善されたという話を、後日福祉関係者から聞いて、老人の代弁者になれたことをうれしく思った。
一家崩壊事件にせよ、老人の自殺などを目のあたりにして、この社会病理学的現象は、早期に解決の道を見いだし、明るい家庭、住みよい社会をつくり出すため、すべての人が考え努力しなければならないことだと痛感した。
単に福祉の問題だけではない。社会的最小単位である家庭のあり方から出直さなければ、この問題は解決しないような気がする。
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