私は監察医として、いろいろな変死体を検死したり解剖したりしているうちに、溺れるという現象、つまり溺死というものに非常な興味を覚えるようになった。それは、溺れるはずのない泳ぎの上手な人が溺死したり、背の立つ浅瀬で溺れたりしているからであった。
溺死というのは、泳げない人が溺れるのが普通である。ところが、泳げる人が溺れたりすると説明のしようがないので、死因は心臓麻痺というと、なぜか世間は納得してくれるのである。
実に便利な言葉であるが、この心臓麻痺というのは事実をごまかす用語でしかない。なぜならば脳、心、肺の三つの臓器が永久に麻痺した場合を死と言うからである。肺炎で死んでも、癌《がん》で死んでも、首をつって死んでも、死ぬときは脳、心、肺の麻痺が起こる。だからそれらの麻痺を死因とは言わない。麻痺を起こさせた原因、疾病が死因なのである。溺死も溺れる前に、それ相当な誘因があるはずである。たとえばてんかん発作があるとか、狭心症、脳卒中、あるいは飲酒酩酊《めいてい》などがあって、水中に没し溺死する。そのとき心臓は麻痺しているが、このような経過で死亡したものを心臓麻痺とは言わない。具体的には、「てんかん発作による溺死」などと表現するのが正しい。
溺死の研究をしているうちに、耳の奥の頭蓋底の部分に、中耳や内耳をとり囲む錐体《すいたい》という骨があり、溺死の際にその骨の中に出血が生じていることがわかった。錐体内出血である。溺死の五〜六割に見られる特有の所見であった。
列車に乗り猛スピードでトンネルに入ると、一瞬耳がおかしくなる。外気圧によって耳の奥の鼓膜《こまく》が内側に陥没するからである。つばをのみ込むような嚥下《えんげ》運動をすると、その異常感は除かれる。それは鼻の奥にある耳管という細い管が開き、鼓膜の裏側の鼓室に空気が送り込まれて、凹《へこ》んだ鼓膜をもとに戻すからである。
溺没の際も理屈は同じである。水中あるいは水面を遊泳中、呼吸のタイミングを誤り、鼻や口から水を吸い込むと、耳管に水が入ることがある。きわめて細いパイプ状の耳管に入った水は、水の栓を形成する。
次いで水中で水を飲む嚥下運動が繰り返されるから、耳管内の水栓はピストンのように耳管内を往復する。そのため鼓室内圧の急変が生じ、鼓室と連続して腔をつくる錐体内の乳様蜂巣《ほうそう》も当然内圧急変の影響を受けることになる。
その結果、乳様蜂巣内の被膜や毛細血管も陰圧、陽圧の繰り返しによって揺さぶられ、ついに破綻《はたん》して錐体内出血を起こすものと推定した。そのため、錐体の内部にある三半規管は、急性循環不全をきたし、機能は低下して平衡失調、つまりめまいが出現する。したがって、いかに泳ぎが上手でも背の立つ浅瀬でも平衡感覚が失われ、溺れてしまうと私は考えた。泳げる人が溺れるのは、決して心臓麻痺などではない。
しかし、これだけで溺れは説明しきれない。わからないことがたくさんあり、さらに研究を進めていけば、溺れの実態は少しずつ解明されていくであろう。
また、錐体内出血を誘因とする溺死は、きわめて稀《まれ》な現象であるから、その不安のために水泳をしないというのは愚かなことである。今にして思えば、私が心臓麻痺という言葉に納得していたならば、この研究はなかったのである。偶然でもあり、またラッキーでもあった。