幼いころ、父から何度か聞かされた話である。
母親が夕餉《ゆうげ》の支度中、わが子に砂糖を買ってくるよう頼んだ。子供は七〜八歳くらいであった。明治になって間もないころの片田舎のこと、砂糖は貴重品である。隣村の店まで往復一里(四キロ)はあった。日が暮れても少年は戻らなかった。
大騒ぎになり、家族は手分けして村中を探したが見当たらない。困惑しているところへ、少年はひょっこり帰って来た。たぶん夜の十時は過ぎていたであろう。
こんな遅くまでどこで遊んでいたのか、と母は叱った。少年は、砂糖を買いに行って来いと言われたから買ってきましたと、袈裟《けさ》がけにした風呂敷包みを差し出した。隣村の店へ行ったら、今品切れでないというので、どこへ行けば売っているか尋ねたら、町と店の名を教えてくれたので、そこまで行って来たというのである。
往復二四キロはある。暗闇の田舎道を少年は一人で歩き続けて、母の言いつけを果たしたのである。まあ!! なんという子であろうと母は驚き、二の句はなかったという。
大人たちの驚きの中に、少年の心意気と言おうか生き様がうかがい知ることができるようであり、母親もわが子が並の人間ではないと感じたに違いない。長じて少年は裁判官になった。農民の子でも勉強すれば、何にでもなれる時代になっていたからである。
この先祖の話は、わが家では言うとはなしに親から子へと語り継がれている。
昭和三十七年五月三日、常磐線三河島駅付近で列車が二重衝突し、百六十人の命が失われる大惨事が発生した。原因は信号係のミスか、運転士の信号見落としかと、国鉄内部では責任のなすり合いがあり、連日報道をにぎわしていた。
そのさなか、事故現場近くに住む若い母親が、事故の責任は私にあるといって二児を絞殺、自殺を図った。新聞にも載っていたが、検死に行き調査すると、母親は事故には全く関係のない精神分裂病の主婦であった。分裂病は時代の不安に敏感であるといわれるが、まさにそのとおりであった。
精神に障害のある者の異常な反応であろうが、国鉄の責任ある人々はこの記事をどう受け止めたであろうか。
そのさなか、事故現場近くに住む若い母親が、事故の責任は私にあるといって二児を絞殺、自殺を図った。新聞にも載っていたが、検死に行き調査すると、母親は事故には全く関係のない精神分裂病の主婦であった。分裂病は時代の不安に敏感であるといわれるが、まさにそのとおりであった。
精神に障害のある者の異常な反応であろうが、国鉄の責任ある人々はこの記事をどう受け止めたであろうか。
中学の校長さんから、最近聞いた話である。
廊下にゴミが落ちていたので、そばにいた生徒に拾ってくずかごに入れるようにと言うと、生徒は「私がですか?」とけげんな顔をして、「捨てた人に言ってください」と言った。
誰が捨てたかはわからぬが、散らかったゴミは学校の生徒として片付けるべきである、と諭すと、生徒は「関係ないよ」と捨て台詞《ぜりふ》を残して立ち去ったという。時代は変わっても、人がなすべき任務に変わりはないはずである。
廊下にゴミが落ちていたので、そばにいた生徒に拾ってくずかごに入れるようにと言うと、生徒は「私がですか?」とけげんな顔をして、「捨てた人に言ってください」と言った。
誰が捨てたかはわからぬが、散らかったゴミは学校の生徒として片付けるべきである、と諭すと、生徒は「関係ないよ」と捨て台詞《ぜりふ》を残して立ち去ったという。時代は変わっても、人がなすべき任務に変わりはないはずである。