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食味歳時記01

时间: 2020-04-20    进入日语论坛
核心提示:キントンその他01キントンとは、どういう字を書くのか。辞典には、�金団�と出てるが、正しいか、どうか。シナから伝わってきた
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キントンその他01

キントンとは、どういう字を書くのか。辞典には、�金団�と出てるが、正しいか、どうか。シナから伝わってきた料理と、思われるけれど、ムリに漢字で書かなくても、キントンでいいだろう。
キントンは、私にとって、日本一の美味だった。こんな、うまいものが、世の中にあるかと、われを忘れて、味わった。他のいかなる料理も、キントンの足もとに、及ばなかった。
いうまでもなく、子供の時の話である。そして、キントンは、宴会帰りの父の折詰の中に、発見することもあったが不定期の喜びであり、絶対確実なのは、正月の膳に向う時だった。
屠蘇や雑煮は、どうでもいい。元日の朝の膳に、口取りがつくのが、最大の幸福だった。口取りの皿に、カマボコ、ダテマキ、その他いろいろ盛られるが、お目当ては、黄色い衣《ころも》の中に、栗が顔を出してる、キントンだった。栗のキントンでなければ、幸福でなかった。年によって、母が倹約して、隠元豆のキントンにすることもあったが、その時の失望は、大きかった。
それほど、キントンが好きだった。正月の喜びも、キントンあるがためと、いえないこともなかった。しかし、成人して、酒の味なぞ知ると、キントンに夢中になっては、体裁が悪いと考えた。それでも、ソッと口に入れると、やはり、うまかった。
私の青年時代に、日本料理屋で会食があると、必ず、昔風の口取りが出た。今では、関西の懐石料理が入ってきたので、口取りといっても、仰々しいものを、出さなくなったが、昔の口取りというものは、装飾的で、大変デコデコしたものだった。銀座に(京橋の橋の近くに)松田とかいった二流料亭があったが、そこの口取りは、大量で、デコデコしてるので、有名だった。子供連れの客は無論、そうでなくても、口取りを注文する客が、多かった。
昔風の口取りというものを、まだ、その頃の東京人が愛してた、証拠である。口取りがないと、ご馳走の感じが、出なかったのだろう。しかし、京都あたりの茶人が見たら、あんなものを食う東京人の味覚を、軽蔑したにちがいない。江戸時代の口取りに、すでに典型があったのだろうが、明治になって、顕官や富豪に、田舎の人が多かったから、一層、ゴテ盛りの賑やかなものに、変ったのだろう。口取りに、砂糖味のきいたものが多いのも、田舎趣味の表われだろう。
もっとも、さすがの東京人も、酒飲みは、口取りを食べなかった。宴会の時でも、口取りは、ただ眺めるだけで、刺身や酢のもので、酒を飲み、口取りは、折詰にして、持ち帰った。明治時代の酔客の絵を見ると、必ず、折詰をブラ下げてるが、その中味は、口取りが主だった。家へ持ち帰れば、細君や子供が喜ぶのである。私の父なぞは、土産用に、べつに一折り註文して、二個持ち帰るのが、常だった。そして、折詰の中の人気者が、キントンであることはいうまでもなかった。
そのキントンは、正月になると、今でも、私の前に現われる。さすがに、もう、敬遠の外はなかった。甘ったるい上に、腹に溜って仕方がない。しかし、子供の時は、あんなにも好きだったことを思い出し、わが子に食べさせたくなるが、すでに、ここにも、時代の懸隔がある。
「キントンか。あんまり沢山つけないでね」
彼は、重箱から盛り分ける母親に、そんな註文をつけるのである。
「キントン、うまくないのか」
私は、不思議だった。
「まアね、大したことねえよ」
事実として、彼は、キントンのみならず、口取りそのものに、大きな興味を示さなかった。それよりも、カズノコだとか、黒豆に混ってる赤いチョーロゲだとか、妙なものを好んだ。そして、正月料理というものを、私の幼い時のように、ご馳走とは考えない、形跡があった。むしろ、新年三日間は、毎日、同じものばかり食わされるのを、不満と考えてるらしかった。
そういえば、私の幼時でも、キントンを除き、魅力のある正月の料理といえば、カマボコやダテマキよりも、むしろ、添え皿に載ってるコーン・ビーフとか、ボイルド・ビーフの類だった。
それは、明治年間では、珍味の一つだった。私の家が横浜で、文明開化の方だったから、そんなものを、正月料理に用いたのだろう。ボイルド・ビーフは、母親の手製だったが、コーン・ビーフの缶詰は舶来品で、平素は、なかなか食べさせて、貰えなかった。タマに食べるせいか、その味は、何ともいえず美味であり、また、缶詰なるが故に、貴重だった。国産の缶詰は、まだ乏しく、舶来品は高価で、缶詰を開くということが、すでに一つのゼイタクだった。
私の母親は、父が歿してから、倹約になり、正月のコーン・ビーフを、南京町から仕入れてきた焼豚やシューマイに、変え始めた。これは、当時としては、英断の一つで、東京人は無論、横浜人といえども、シナ料理を食う人は、少かった。私の亡父の如きも、豚を不潔と称して、ハム以外は、口に入れなかった。しかし、母親は、安くてウマいものなら、憚るところなしと、思ったのだろう。敢然と、正月の膳に載せたのである。そしてまた、当時のシナ料理は、極めて安価であり、シューマイの如きは、一個一銭に過ぎなかった。
しかし、すでに明治年間に、コーン・ビーフとか、シューマイとか、他国の食品が、正月の膳に載せられたということに、私は、一つの意味を、見出すのである。つまり、その頃すでに、日本人は、雑煮やお節料理の旧態依然たる正月の膳に、少し飽き始めたのだろう。いや、正月ばかりではない。平素の食物にしても、明治後期から大正にかけて、驚くべき家庭料理の変化があった。シナ料理は、少し後のことだが、洋食の方は、浸々として、家庭料理に入ってきた。�今日もコロッケ、明日もコロッケ�という大正の流行唄が、それを証明するだろう。
一般の文化の洋化が、著しくなったのに、料理だけが、国風を守ることはできないので、自然、そうなったのだろう。そして、食う方の改革は、常に最後で、最大なものであって、�今日もコロッケ�の風習が始まってから、日本人も、東洋の欧米人たる方角に向って、歩き出したのだろう。食物ということを、等閑視してはいけない。思想も、文化も、食物が変ることで、根底から、変ってくるのである。
そして、敗戦によって、日本は大きく変ったが、食物も、大きく変ってきた。戦前の日本とは比較にならぬほど、洋化が激しくなった。日本を破ったアメリカは、料理の国としては、一等国ともいえないが、それでも、そこの特産のホット・ドッグという食物は、今の日本人の日常食になってしまった。もっとも、フランス料理への傾倒は、戦後、俄かに昂まって、パリの高級料亭�マキシム�が、東京へ支店を出すに至った。フランスは連合国側だから、そうなったのかと思ったが、イタリー料理も、非常な勢いである。同じ枢軸側で、敗戦仲間だが、それでも、イタリー料理は、戦後の日本を侵略してる。六本木あたりのイタリー料理は、パリやロンドンのイタリー料亭のそれより、美味なくらいである。そして、スパゲッチの流行ときたら、日本全土に及んでる。
一方、中華料理の方は、これはもう、多言を要さない状態にある。戦前も、日本人は、ずいぶん中華料理を好んだが、今日ほどのことはなかった。今の日本人は、中華料理に対する舌が、すっかり肥えてしまって、中共に住んでる人たち以上になったのではないか。少くとも、優秀な中華料理人の集まる香港や、台湾の顧客と、あまり変らぬ味覚の持主になったのではないか。もっとも、高級料理の鑑賞のみならず、ラーメン、ギョーザの日常食としての普及化は、驚くべきものがある。
とにかく、戦後の日本人は、外国の料理なら、何でも大歓迎。外国料理というより、外国そのものを、食いたいのだろう。
こういう国は、世界のどこにも類例がない。
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