中華料理や朝鮮料理には、独特の形をした鍋料理の鍋があって、一種の寄せ鍋を食わせることは、人の知るとおりだが、欧米の料理には、その例を聞かぬようである。
これは、欧米人が、舌を焼くほど熱いものを好まぬからだろう。大体に於て、彼等は猫舌である。フウフウいいながら、ものを食うという表現は、全然、彼等の食欲を誘わない。
しかし、料理を冷めないうちに食う用意は、彼等も、充分に行ってる。皿を暖めることも、料理場から食卓への運搬時間を、やかましくいうのも、その一例である。ことに、冷めたスープに対しては、顔をしかめない者はあるまい。
彼らだって、料理は熱いうちに食うべきことを、よく知ってるのだが、鍋ものという料理は、発明しなかった。ロシアなぞ、寒い国だから、鍋料理がありそうなものだが、私は聞知しない。
なぜ、食卓に鍋を運ばないかと、考えるのだが、台所と食卓との観念的区別が、強いことも、一因だろう。また猫舌の点もあるだろう。しかし、それよりも、食卓でものを煮る燃料に、適当なものがなかったからではないか。彼等の炊事用燃料は、以前は石炭か、木材だったが、どれも、食卓には向かない。
そこへいくと、わが国では、木炭という重宝なものがある。煙も、臭気も出さず、座敷で使用するに、便利である。どうも、木炭があったから、日本で鍋料理が進歩したと、考えられる。もっとも、フランスでは、木炭がないことはない。シャルボン・ド・ボァと称して、売ってる。木の石炭の意である。しかし、どんな場合に用いるのか、私は知らない。以前、フランス映画で、木炭で魚を焼くのを、見たことがあるが、それはマルセーユが舞台だった。パリでは、どうするのか。
西洋に日本風な鍋料理のないのは、確かだが、煮て食うのでなく、暖めて食う目的だったら、鍋を卓上に持ち出す場合もある。パリのモンマルトルに、有名なノルマンディ料理屋があったが、そこの名物は�トリップ・ア・ラ・モード・カン�と称するもので、豚の胃袋の料理である。豚の胃袋は、非常に脂こいもので、熱いうちに食わなければ、口の中がニチャニチャしてしまう。そこで、鍋のまま卓上に持ってくるか、アルコール・ランプの上へ、載せてくる。すでに調理したものを、温度を落さないために、そんな仕掛けをするので、煮て食うとはいえない。従って、鍋料理とはいえない。とにかく、大変シツコイ味だから、酒もブドー酒でなく、林檎酒を飲む。林檎酒の酸味が、脂肪を消すからである。
右の料理の外に、日本でもこの頃ボツボツ始めた、マルセーユ料理の�ブーイヤベス�も、アルコール・ランプと共に、卓上に出す場合がある。あれなぞは西洋寄せ鍋であって、日本人の嗜好に適すると思うが、逆に、フランス人に日本の寄せ鍋を食わしたら、喜ぶかも知れない。いつも、スキヤキとテンプラでもあるまい。しかし、日本の�ブーイヤベス�は、サフランの添加が少いので、もの足りない。あの薬草の匂いが、魚臭を消し、その上、あの料理独特の魅力となるのである。
といっても、要するに、アルコール・ランプで保温する、鍋料理である。ナマのものを煮て食う、日本の鍋料理とは、本質を異にする。どちらがウマいかということになれば、後者だと思う。日本流だと、自分の好きな煮え加減で、食うことができる。これが、大きな強味である。しかし、夜食に礼服をつけて、食卓に臨む英国人の趣味からいえば、鍋料理は、外道にちがいない。日本でも、封建時代だったら、鍋料理なんて、町人か足軽の食物だった。武士の家庭では、思いも寄らぬことだろう。その頃は、台所と座敷の区別が、厳然としてたのである。そして、男子は庖厨に入ることを、忌んだのである。しかし、現代の日本は、ダイニング・キッチンとか称して、台所と食堂を合体させるのが流行だから、わざわざ鍋料理を食わなくても、すべての料理の鍋と火は、眼前に見られることになった。従って、男子にとって、台所のオフ・リミットは解かれたというものの、皿洗いを命じられることも、覚悟しなければならない。
これは、欧米人が、舌を焼くほど熱いものを好まぬからだろう。大体に於て、彼等は猫舌である。フウフウいいながら、ものを食うという表現は、全然、彼等の食欲を誘わない。
しかし、料理を冷めないうちに食う用意は、彼等も、充分に行ってる。皿を暖めることも、料理場から食卓への運搬時間を、やかましくいうのも、その一例である。ことに、冷めたスープに対しては、顔をしかめない者はあるまい。
彼らだって、料理は熱いうちに食うべきことを、よく知ってるのだが、鍋ものという料理は、発明しなかった。ロシアなぞ、寒い国だから、鍋料理がありそうなものだが、私は聞知しない。
なぜ、食卓に鍋を運ばないかと、考えるのだが、台所と食卓との観念的区別が、強いことも、一因だろう。また猫舌の点もあるだろう。しかし、それよりも、食卓でものを煮る燃料に、適当なものがなかったからではないか。彼等の炊事用燃料は、以前は石炭か、木材だったが、どれも、食卓には向かない。
そこへいくと、わが国では、木炭という重宝なものがある。煙も、臭気も出さず、座敷で使用するに、便利である。どうも、木炭があったから、日本で鍋料理が進歩したと、考えられる。もっとも、フランスでは、木炭がないことはない。シャルボン・ド・ボァと称して、売ってる。木の石炭の意である。しかし、どんな場合に用いるのか、私は知らない。以前、フランス映画で、木炭で魚を焼くのを、見たことがあるが、それはマルセーユが舞台だった。パリでは、どうするのか。
西洋に日本風な鍋料理のないのは、確かだが、煮て食うのでなく、暖めて食う目的だったら、鍋を卓上に持ち出す場合もある。パリのモンマルトルに、有名なノルマンディ料理屋があったが、そこの名物は�トリップ・ア・ラ・モード・カン�と称するもので、豚の胃袋の料理である。豚の胃袋は、非常に脂こいもので、熱いうちに食わなければ、口の中がニチャニチャしてしまう。そこで、鍋のまま卓上に持ってくるか、アルコール・ランプの上へ、載せてくる。すでに調理したものを、温度を落さないために、そんな仕掛けをするので、煮て食うとはいえない。従って、鍋料理とはいえない。とにかく、大変シツコイ味だから、酒もブドー酒でなく、林檎酒を飲む。林檎酒の酸味が、脂肪を消すからである。
右の料理の外に、日本でもこの頃ボツボツ始めた、マルセーユ料理の�ブーイヤベス�も、アルコール・ランプと共に、卓上に出す場合がある。あれなぞは西洋寄せ鍋であって、日本人の嗜好に適すると思うが、逆に、フランス人に日本の寄せ鍋を食わしたら、喜ぶかも知れない。いつも、スキヤキとテンプラでもあるまい。しかし、日本の�ブーイヤベス�は、サフランの添加が少いので、もの足りない。あの薬草の匂いが、魚臭を消し、その上、あの料理独特の魅力となるのである。
といっても、要するに、アルコール・ランプで保温する、鍋料理である。ナマのものを煮て食う、日本の鍋料理とは、本質を異にする。どちらがウマいかということになれば、後者だと思う。日本流だと、自分の好きな煮え加減で、食うことができる。これが、大きな強味である。しかし、夜食に礼服をつけて、食卓に臨む英国人の趣味からいえば、鍋料理は、外道にちがいない。日本でも、封建時代だったら、鍋料理なんて、町人か足軽の食物だった。武士の家庭では、思いも寄らぬことだろう。その頃は、台所と座敷の区別が、厳然としてたのである。そして、男子は庖厨に入ることを、忌んだのである。しかし、現代の日本は、ダイニング・キッチンとか称して、台所と食堂を合体させるのが流行だから、わざわざ鍋料理を食わなくても、すべての料理の鍋と火は、眼前に見られることになった。従って、男子にとって、台所のオフ・リミットは解かれたというものの、皿洗いを命じられることも、覚悟しなければならない。