二月の食物というと、私には、忘れ得ざるものがある。それは、私が二月に食べるもののうちで、最高の味であり、そして、もう、生涯、食う機会もあるまいと思うので、特記せざるを得ない。
私は終戦の年の暮れに、亡妻の郷里である四国の宇和島在に、疎開したのである。戦争が済んで、疎開するなんて、間が抜けた話だが、実は、すでに疎開してた神奈川県の海岸の町が、戦後になって、一層、食物の窮迫を告げ、どうにも堪らなくなって、再疎開ということになったのである。妻の郷里は、物資豊富と、聞いたからである。
果たして、私の家族は、飢えずに済んだ。その上、疎開者の肩身狭さも、知らずに済んだ。というのは、私が借りた家が、土地の素封家の離れ家で、その持主が、大変、私を厚遇してくれ、あらゆる世話を惜しまなかった。私は彼の紹介で、土地の有力者たちと懇意になり、その人々も、十年の知己のように、私を扱ってくれた。
そこは、海と山とに挾まれた、細長い町で、中央に、川が流れてた。私の家も、川に面してたが、石塊の多い河原を、清流が流れ、夏は鮎が橋の上からも、釣れた。ハヤやウナギも獲れた。そういうものは、皆、土地の人が頒けてくれるから、海の幸の他にも、私の食膳を賑わし、再疎開の目的は、達成された。
私はその町に、約二年いたのだが、その間に、二回、二月という月を迎えた。そして、曾て知らざる早春の珍味に接し、疎開者としては、あまりにも幸福な自分を、感謝しないでいられなかった。
それは、白魚なのである。土地の人は、それを、シライオと呼ぶが、どうも、東京あたりで見る白魚と、同種のものとは、思われない。非常に小型で、白魚というより、シラスに近いのである。見たところ、極めて貧弱であるが、土地の人は、小型であることを、自慢にしてる。例えば、宇和島でも、白魚は獲れるが、ずっと、形が大きく、遥かに、風味が劣るという。
「あがいなもん、食われますかい」
と、土地の人は、蔑視してる。
その小型の白魚が、海から川へ溯上してくるのが、二月なのである。それも、せいぜい、十日間か、二週間の短期間に過ぎない。
その代り、大群が溯ってくる。私はその現場を見たが、川の水が瀬となって、音を立てるあたりを、魚群がチリメンのような水の皺を、呈するので、すぐ、それとわかる。しかし、透明な魚だから、側へ寄っても、一疋の姿を捉えることはむつかしい。
それを、四ツ手網のようなもので、掬い上げるのである。無論、私には、そんな芸当はできない。土地の人がやるのだが、彼も素人で、漁師ではない。白魚は、魚屋で扱わないから、もの好きな人が、漁をするに過ぎない。そのもの好きな人は、土地の有力者に多かったから、私と交際があり、獲物も届けてくれるのである。その恩恵を、謝さねばならない。魚屋で売ってない品物だから、普通には、口に入らないわけである。
最初は、ナマで食って見ろといわれ、いわゆる白魚の踊り食いというのを、試みた。生きてるのを、ポン酢で食べるのだが、口の中で動くようなものは、イカモノであって、好味とはいい兼ねた。
それで、最初は、土地の人の自慢を、信じなかったのだが、やがて、亡妻が郷土風の白魚汁をつくってくれ、それを味わって驚いた。こんなウマいものが世にあるかと、感じ入った。
それは実にヤボな料理であって、人参と椎茸のセン切りを湯煮にして、その中に多量の白魚を投じただけの吸物である。都会風の白魚の吸物は、美人の子指のような数疋の白魚と、僅かな青味が清汁に浮いてるだけだが、ここの白魚は、一見、中華料理の羹《あつもの》のように、雑然として、且つ、トロトロしてる。そのヌメリは、多量の白魚から生ずるもので、まるで、カタクリ粉を混じた観がある。そして、生きた白魚でないと、そのヌメリが出ないことも、度々の経験でわかった。
その味は、酒のサカナによく、また、飯のオカズに向き、つまり、一家の誰にも歓迎された。郷土料理というものは、主人だけの食物でないところに、特色があるのだろう。
二月の食味として、これ以上のものを、知らないが、私があまり激賞するので、昨年、その土地の旅館の老女将が、飛行機で上京する時に、獲れたてのものを、持参してくれた。
軒につるす、ガラスの金魚鉢へ、白魚を入れて、持ってきてくれたのは、おかしかったが、彼女の苦心の甲斐もなく、白魚は、もう、死んでいた。
「松山で、飛行機に乗る時までは、まだ生きとりましたんやけど……」
しかし、空港で、水の補給をしたのが、かえって悪かったらしく、それから、急に勢いが弱ってしまったそうである。
それにしても、彼女の親切がうれしく、私は、早速それを、食膳に上すことにした。死んだ白魚といっても、死にたてであることは、まちがいなく、また、普通、東京で食う白魚は、常に、死んでるからである。
そして、妻に、料理法を授けて、あの土地風の白魚汁にしたのだが、味は、決して、悪くなかったにしても、あのヌメリの舌触りは、ついに、望むべくもなかった。
私は終戦の年の暮れに、亡妻の郷里である四国の宇和島在に、疎開したのである。戦争が済んで、疎開するなんて、間が抜けた話だが、実は、すでに疎開してた神奈川県の海岸の町が、戦後になって、一層、食物の窮迫を告げ、どうにも堪らなくなって、再疎開ということになったのである。妻の郷里は、物資豊富と、聞いたからである。
果たして、私の家族は、飢えずに済んだ。その上、疎開者の肩身狭さも、知らずに済んだ。というのは、私が借りた家が、土地の素封家の離れ家で、その持主が、大変、私を厚遇してくれ、あらゆる世話を惜しまなかった。私は彼の紹介で、土地の有力者たちと懇意になり、その人々も、十年の知己のように、私を扱ってくれた。
そこは、海と山とに挾まれた、細長い町で、中央に、川が流れてた。私の家も、川に面してたが、石塊の多い河原を、清流が流れ、夏は鮎が橋の上からも、釣れた。ハヤやウナギも獲れた。そういうものは、皆、土地の人が頒けてくれるから、海の幸の他にも、私の食膳を賑わし、再疎開の目的は、達成された。
私はその町に、約二年いたのだが、その間に、二回、二月という月を迎えた。そして、曾て知らざる早春の珍味に接し、疎開者としては、あまりにも幸福な自分を、感謝しないでいられなかった。
それは、白魚なのである。土地の人は、それを、シライオと呼ぶが、どうも、東京あたりで見る白魚と、同種のものとは、思われない。非常に小型で、白魚というより、シラスに近いのである。見たところ、極めて貧弱であるが、土地の人は、小型であることを、自慢にしてる。例えば、宇和島でも、白魚は獲れるが、ずっと、形が大きく、遥かに、風味が劣るという。
「あがいなもん、食われますかい」
と、土地の人は、蔑視してる。
その小型の白魚が、海から川へ溯上してくるのが、二月なのである。それも、せいぜい、十日間か、二週間の短期間に過ぎない。
その代り、大群が溯ってくる。私はその現場を見たが、川の水が瀬となって、音を立てるあたりを、魚群がチリメンのような水の皺を、呈するので、すぐ、それとわかる。しかし、透明な魚だから、側へ寄っても、一疋の姿を捉えることはむつかしい。
それを、四ツ手網のようなもので、掬い上げるのである。無論、私には、そんな芸当はできない。土地の人がやるのだが、彼も素人で、漁師ではない。白魚は、魚屋で扱わないから、もの好きな人が、漁をするに過ぎない。そのもの好きな人は、土地の有力者に多かったから、私と交際があり、獲物も届けてくれるのである。その恩恵を、謝さねばならない。魚屋で売ってない品物だから、普通には、口に入らないわけである。
最初は、ナマで食って見ろといわれ、いわゆる白魚の踊り食いというのを、試みた。生きてるのを、ポン酢で食べるのだが、口の中で動くようなものは、イカモノであって、好味とはいい兼ねた。
それで、最初は、土地の人の自慢を、信じなかったのだが、やがて、亡妻が郷土風の白魚汁をつくってくれ、それを味わって驚いた。こんなウマいものが世にあるかと、感じ入った。
それは実にヤボな料理であって、人参と椎茸のセン切りを湯煮にして、その中に多量の白魚を投じただけの吸物である。都会風の白魚の吸物は、美人の子指のような数疋の白魚と、僅かな青味が清汁に浮いてるだけだが、ここの白魚は、一見、中華料理の羹《あつもの》のように、雑然として、且つ、トロトロしてる。そのヌメリは、多量の白魚から生ずるもので、まるで、カタクリ粉を混じた観がある。そして、生きた白魚でないと、そのヌメリが出ないことも、度々の経験でわかった。
その味は、酒のサカナによく、また、飯のオカズに向き、つまり、一家の誰にも歓迎された。郷土料理というものは、主人だけの食物でないところに、特色があるのだろう。
二月の食味として、これ以上のものを、知らないが、私があまり激賞するので、昨年、その土地の旅館の老女将が、飛行機で上京する時に、獲れたてのものを、持参してくれた。
軒につるす、ガラスの金魚鉢へ、白魚を入れて、持ってきてくれたのは、おかしかったが、彼女の苦心の甲斐もなく、白魚は、もう、死んでいた。
「松山で、飛行機に乗る時までは、まだ生きとりましたんやけど……」
しかし、空港で、水の補給をしたのが、かえって悪かったらしく、それから、急に勢いが弱ってしまったそうである。
それにしても、彼女の親切がうれしく、私は、早速それを、食膳に上すことにした。死んだ白魚といっても、死にたてであることは、まちがいなく、また、普通、東京で食う白魚は、常に、死んでるからである。
そして、妻に、料理法を授けて、あの土地風の白魚汁にしたのだが、味は、決して、悪くなかったにしても、あのヌメリの舌触りは、ついに、望むべくもなかった。